「怖い話ですか、そうだなあ……」
彼は皿に残っていた鶏塩レバーを箸で摘み口に放り込んで噛みながら考える。
話も尽きて人を食ったような話題も出てこず、居酒屋に流れる懐メロも何処か白々しく聞こえる呑み会の終わりだった。客足も徐々に引き始めてテーブル席の我々のもう一人、同僚は酔い潰れかけ舟を漕いでいる。
彼がレバーを飲み込み私を見つめて口を開いた。
「これは学生時代の事なんですがね」
そう言ってコップに残っていた気の抜けたビールで唇を湿らす。
「学校の最寄りの駅の通学路に古びた公衆電話があったんですよ。今でもまだあるような透明のアクリル板で四方を囲まれたものじゃなくて、クリーム色の板に窓の付いたもの」
私も古い映画でしか見た事のないようなものだ。彼は続ける。
「あの頃はまだ猥褻なピンクチラシが電柱や公衆電話にも勝手に貼られていましたね。その公衆電話も糊が剥げて床に落ちたチラシが床の隙間から見えていましたよ」
彼がポケットを探りライターと煙草を取り出す。一本抜いて火をつけてプカプカと紫煙を燻らす。
「ある日、冬の寒い日に部活を終えて駅まで歩いている最中でした。公衆電話の前を横切った瞬間、鳴ったんですよ。〝ジリリリン〟って、ひとりでに」
その現象は心当たりがある。電話会社の通信テストの際に〝空〟で鳴らすというものだ。それじゃあないんですか、と問うと彼は煙草を銜え深く吸い、ふうっ、と煙を吐き出した。
「一ヶ月間、電話の前を通り過ぎる度に〝ジリリリン〟、離れると止まる。次の日、通学時は鳴らないのに下校時に〝ジリリリン〟、部活仲間と居る時は鳴らない。必ず一人の時だけ鳴るんですよ」
当時体験した気味の悪さが見事に含まれていた語り口で私も妙に首筋が固く凝るような感覚で聞いていた。
「ずっと無視していたんですがね、その日も鳴った。だけど、そのまま歩いていくと違った。ずっと鳴っているんですよ。振返ると部活終わりの夕陽を背負って紫に染まる道と公衆電話の長く伸びた影――ええい、出てやる、どんな奴が相手だ。戻って扉を開けて受話器を取った。そうしたら……」
――そうしたら。
「無言電話ですよ」
やはり通信テストでは、と言いかけると彼は頭を振った。
「相手の荒い息が聞こえるんですよ、でも何も言わない無言電話。呼吸は一定で明らかに人間のもの、普通だったら背後に車の走行音やら生活音が聞こえるでしょう。それらが一切聞こえない無言電話」
彼が殆ど灰になった煙草を灰皿に揉み消す。
「『もしもし』と言っても自分の声が受話器から反響するように聞こえてきました。不気味でしたよ。相手は電話の向こうに居る筈なのにね。しばらくこちらも黙ってましたが切りました。その後が酷かった……」
彼が脇に置いていた鞄を弄りながら続ける。
「家に帰ると無言電話がかかってきたんですよ」
「家の電話に朝昼晩関係なしに何度も何十回も何百回も無言電話。母親はノイローゼ寸前。父親が思い切って電話を解約したんですがね、社会人になって携帯電話が普及し始めると、ほら」
彼が自身の携帯電話の着信履歴を私に見せた。
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
『公衆電話』
見事に五分おきに公衆電話からの着信が並んでいた。
「どうです?」
私は咽喉がひりつくような思いでそれを見つめていた。
「公衆電話を着信拒否にしても電話会社に調査して貰ってもこのざまですよ。マナーモードにしていますが、携帯電話の意味はないですね。いつも部下や同僚のものを借りて電話しています。公衆電話は使いたくないですね」
その時、彼の携帯電話が震えた。液晶画面には『公衆電話』、と。彼はそのまま鞄に仕舞った。そして、一言。
「一度、出たんですがね……無言電話でしたよ」
やがて、鞄の振動は収まり彼が深く溜息をついた。
「最近、用事があって母校の近くに行ったんですよ。あの公衆電話があった前を通りました。撤去されてましたね。でも、あの公衆電話の向こうの相手はこちらを狙って電話をかけてきているんですから意味はないかなあ……さっきみたいにかかってきてますし。ははは」
彼の空笑いに私は何とも言えない苦笑いを浮かべるしかなかった。
◇◇◇
居酒屋を出て彼と別れて呑み潰れた同僚を過分の運賃を渡したタクシーに押し込んだ。夜道を歩いて、酔い覚ましに立ち寄ったコンビニで炭酸水を買い近くの公園のベンチに座って飲んでいた。
しかしながら、話のネタが尽きたからと言って無闇に怖い話をふるものでもないなと感じていた。あまり、気分が良いものではない。
腕時計を見ると既に夜半を回っている。家は徒歩圏内にあるが不審者に遭っても面倒だ。
ベンチから立ち上がると耳慣れた音が聞こえた。
普段なら気にも留めないもの。
ぼんやりとした灯りがついた公衆電話がひとりでに鳴っている。
――これは彼の話のものではない、あれは既に撤去されたというではないか。
しかしながら、私は扉をあけて中に入り、鳴っている電話の受話器を取った。
『もしもし』
私の声が反響して聞こえて、相手の荒い息が耳に纏わりついてきた。
(初稿:2025/08/10)
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