我が家は柴犬を飼っている。名前は小太郎、五歳のオスだ。
子供のない私たち夫婦にとっては友人から譲り受けた仔犬の時から我が子のように可愛がっている。警戒心はなく誰彼問わず懐いて配達のお兄ちゃんや、私の父が設立し同じ兄弟で跡を継いだ建設会社の現社長である兄や甥っ子に姪っ子、動物が苦手なお客さんにも「遊ぼ、遊ぼ」だ。到底、番犬気質ではなく室内犬として過ごしている。
毎日、運動とフンをさせるのに朝に私、夜に妻が交代で小太郎を散歩に連れて行っている。そんな今夜は妻がエチケット袋を振り回しそうな勢いで帰ってきた。
「出た、出たのよ……」
「出たって、小太郎のうんちが?」
「違うわよ! オバケ!」
ここで遅まきながらこの会話の季節と私の住む地域をざっくりと説明する。
我が家は北国にあり冬は豪雪に見舞われる。厳冬期になると雪かきが欠かせず線路もラッセル車が駆け抜けて道路も生活圏内は除雪車が動いている。何百年と続く人々の営みがほそぼそと紡がれているそんな場所だ。
そして今は真冬。私たちは互いにモコモコに着込んで小太郎の散歩をして今宵、妻が〝オバケ〟を見たと。小太郎の足を拭った妻がそのまま抱っこをして暖房の前で話し始めた。小太郎はあたたかさに眼を細めている。
「いつもの散歩コースを行ってたんだけどね、ちょうど雪が降った後だったの。こたちゃんがうんちして始末してる時かな。私も早く帰ってお風呂入りたいなあって考えてたら、ざく、ざく、ざくって」
「足音?」
「そう誰かの足音、通りの向こうから聞こえてきて音の大きさから大人かなって。新雪だから周りには足跡がなくて、新しく踏みしめて、ざく、ざく、ざく……夜だから誰か仕事から帰って来たのかなって」
「それで?」
「向こうの街燈の下に足音がして見ていたら足跡が沈んでいったのよ」
「……ん?」
私は余りピンと来なかった。雪に足が沈むのは当然だろう。そう告げると妻は大きく溜息をついた。
「真っ白な雪の上に足跡だけが、ざく、ざく、ざく。一歩ずつ一歩ずつ増えていくの。足跡の上には人間は居ない。靴もない、脚もない、身体もないの!」
「はぁー、そりゃあオバケだね」
「でしょう!?」
妻の大声に抱かれていた小太郎がきゃいきゃいと鳴いて心配そうに彼女を見上げた。小太郎を撫でつつ話は続けられた。
「こたちゃんがね、誰でも寄っていってすりすりするような子だから、さっきも大変だったわ。ぐるぐる回って足跡に向かって甘えたような声を上げてね、吠えてくれれば良かったんだけど」
どんな相手でも、それが近所の強そうな犬でも小型犬でも、吠えもせずじゃれつく小太郎がオバケにも甘えるとは。
私は呑気に、それでオバケは見えた、と訊いたら妻は睨んだ。
「見えればまだ怖くはないわ。一つ目のオバケでものっぺらぼうでもエチケット袋投げてやったわよ」
「それは……マナー違反じゃないかなぁ」
「そういう問題ぃ? はぁ……結局、〝見えなかった〟わ。何もね」
「消えたオバケ、か」
「……消えてなかった」
「え」
彼女がおどろおどろしい声で私の耳元に口を寄せて囁いた。
「止まった足跡が私たちに気付いたように向きを変えてこっちへ進んで来たのよ、一歩ずつ、ざく、ざく、ざく、ってね……足跡、裸足だった」
「……」
「こたちゃん抱いて逃げたわ。エチケット袋は離さなかったからね」
◇◇◇
真冬の怪談噺を聞いたその明くる日の朝、小太郎は暖房の効いた部屋の庭に面した二重窓の隅の毛布に包まって寝ている。起きてきた私はちらりと見て新聞を取りに玄関に出た。昨夜、降ったであろう雪が新たに積もっていた。
すると、室内で小太郎がくうんくうんと鳴いている。
「どうした、小太郎。朝だぞ」
中へ戻ると小太郎が部屋をうろつき回り閉まったカーテンの窓の外に向かい切ないような声を上げる。何だろう、と思いつつ私たちの寝室に抱きかかえて連れて行った。
ベッドの上の寝ぼけ眼の妻が枕元の目覚まし時計を見る。
「……起きる?」
「もうちょっと寝てたら。雪かきして小太郎の散歩の支度するよ」
「……うん」
妻が寝ている間に玄関周りの雪かきをしてから一旦戻って散歩の準備をする。
朝の新雪を踏む、スノーシューズが上に積もったやわらかい雪から固い氷の塊になった雪に届く。小太郎はご機嫌に尻尾を振り息を吐いて歩みを進める。
ふと、後ろを振り返る。私と小太郎の足跡以外はなかった。前も見ても誰も居ない。早朝は学生も居ない。幹線道路沿いに出ると、オバケなんて本当に居たのかと思う程の車通りで文明社会の波が非科学的なものを押し流していく。
ざく、ざく、と積もった雪を踏みしめる。
ざく、ざく、ざく。
ざく、ざく、ざく。
ざく、ざく、ざく。
ざく、ざく、ざく。
ざく、ざく、ざく。
ざく、ざく、ざく。
ざく、ざく、ざく。
ざく、ざく、ざく。
帰宅して小太郎にドッグフードと水をあげてから私も朝食の準備をする。庭の窓のカーテンを開ける。
私は腰を抜かした。
庭に積もった新雪には幾重もの人と見られる足跡が残っていた。大きさはまちまちで大人のものから子供のものまで、全て裸足のものだった。
唖然としながら昨日の話を思い出していると、気付いた事があった。
足跡はどれも全て〝我が家の窓の方へ向かって真っ直ぐに残っている〟という事に。
これらの足跡は、誰が呼んだのか――。
私の脇に小太郎がやってきて外をジッと見てクシャミをした。そして「ぼくは知らないよ」と言わんばかりにこちらを見上げてから去って行った。
(初稿:2026/01/30)
© Magic Mountain Way