Magic Mountain Way

デスマスク

三十年程前になるが、仕事を辞めて僅かな貯金と画材道具を携えてスペインへ旅立った。

無論、仕事ではない観光ビザでの滞在、あの時はただ灰色の現実から逃避したかっただけのあまちゃんにしか過ぎないであろう。

季節は夏。空港から降り立つと兎に角、暑い。空気がからからで肌が刺すように痛い。暇そうにしていたタクシーを捕まえて乗り込む。ドライバーから英語で『兄ちゃん、中国人かい、日本人かい』と訊かれて『ハポン』と答えると彼は『なんとかってハポンのアニメが流行ったぜ』としきりに言っていた。

『眠気覚ましにどうだい』

そう言って彼がラジカセにカセットテープを入れてスペインのハードロックをかけられて耳はぐわんぐわんとしてきた。

目的地の港町に着いて彼に運賃とチップ、それにお土産の日本の空港で買ったご当地キャラクターのキーホルダーを渡すと彼はたいそう喜んだ。

港町は白いキューブのような石造りの建物で構成されて溶かす前の石鹸の香りがしそうだった。

灼けた顔のひとびと、海鳥が漁師のお溢れを狙い、魚を前に痩せた猫と太った猫が睨み負けた方が去っていく。私は異邦人であった。

バルを見付けて入ると客から好奇の視線を送られた。

カウンターに座りこう告げる。

「うな・せるべさ・ぽるふぁぼおる」

『ハッ』

店主が笑いながらもビールを注ぐ。泡のないぬるい液体でのどを潤す。店主が問いかける。

『ハポネスか』

「しー」

『ツマミは何にするね?』

カウンターに並べられた酒のアテの皿を見る。見慣れぬ食材の料理もあったが私は海鮮が食べたかった。

「えっと……あ、タコがある、ぷるぽ・ぽるふぁぼおる」

タコを食べながら呑んでいると別席のハンチングを被った肥えた髭の老人が近付いてきた。

『ハポネス、英語はいけるか』

『ちょっとだけ話せます』

『おれはオマエの国のヒバリ・ミソラが好きだぞ、唄おうか』

老人は上機嫌ながら音程の外れた『柔』を唄った。

◇◇◇

それから一ヶ月、スケッチブック片手にオリーブ畑や遠出して建設途中のサグラダ・ファミリアを描いてきたが、やはりサラリーマン生活というのが性に合っていたかもしれないとしょぼくれていた。何を描いても既存のものの殻を破る事が出来ない。

そうこうしている内に私の帰国が迫っていた。泊まる場所になっていたあの港町へ帰るとすっかり顔馴染みになったバルの面々が出迎えてくれた。

『明日には帰るんだろう、寂しくなるな』

『オレたちから御馳走を用意してやった、食ってくれ』

「ありがとう、ぐらしあす、ぐらしあ……」

テーブルの上の皿に乗っていたのは丸々と肥った蟹の丸茹でだった。甲羅は相撲取りやプロレスラーの手のひら以上だろうか、実に贅沢な御馳走であろう。それが〝普通の蟹〟であればの話だが。

『さあ、食ってくれ。遠慮はするな』

『美味そうだろう、ああ、涎が出てくる』

「……」

眼の前にある蟹の甲羅には苦悶の表情を浮かべた〝私の顔〟があった。

これが甲羅の凹凸によって生じた眼の錯覚であればまだ良かったのだが、そこに存在するのは赤く熱せられた柔らかな頬にぎょろりと白濁した人間の眼球、歪んだ口元、私の顔とは客観的にはこういうものかな、と頭の片隅で妙に冷静に見ていられる自分がとても嫌だった。

『さあくいな』

『えんりょせずくいな』

『おまえのためによういしたんだ』

『くえ』

『くえ』

『くえ』

『くえ』

『さあ』

『さあ』

『さあ』

『さあ』

彼らの声が洞穴の中の邪教の祭壇から響く悪魔のように周囲から私の耳へ入ってきた。

――ええい、ままよ。

私は齧り付いた。

◇◇◇

『日本人画家として成功し、現在はスペインを拠点に……』

彼がテレビを消してアトリエを後にする。

四角い白い石造りの町並みは初めてここに来た時から彼を魅了している。

潮風が心地良い、故郷とは違う乾いた風だ。この風は大地を抜けてオリーブ畑を揺らしやがてそれらの実を太陽と共に熟させる。

港に出ると見知った顔が『元気かい、ハポネス!』と声をかける。

馴染みのバルでぬるい泡のないビールで一杯やる。これが何よりの楽しみだ。彼の顔は満面の笑みだ。

――壁にかけられた以前の自分の顔を持った人面蟹の剥製には眼もくれず。

(初稿:2026/07/02)

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