Magic Mountain Way

気球が降りた日

震災があった年の初秋だと記憶している。

その年は抜けるような空が印象的で前年に出来た国際空港へ向かう旅客機が飛んでいくのを首が痛くなる迄、見上げたものだった。

私は小学校の三年生、弟が二年生。私は居間で日曜日のお笑い番組を観ていた。三十年経った今でも続いている長寿番組でその当時でも数十年は経っていたかも知れなかった。すると外で遊んでいた筈の弟が家に飛び込んできた。

「兄ちゃん! 兄ちゃん!」

「何や、トシカズ。うるさいなあ」

「ちゃうて、気球! お母ちゃんも、気球や、気球!」

弟が台所へ駆けて母を呼びに行っている間に私も表に出ると空に気球が浮かんでいた。

俄には信じられないような光景だった。赤色と橙色が中心の白を挟んだ三色の巨大な気球が低空を滑るように流れている。母親も出てきて魂消ていた。

「いや、えらい事やわ、落ちてあんのちゃうん」

「ぼく、見てくる!」

「あっ、トシくん! ちょっと、お兄ちゃん見て来たって」

母親に促されて追いかけようとするも、当時、我が家には子供の自転車は一台しかなくそれに乗った弟を追いかけるしかなかった。家を出て走りながら空を見る。気球の高度はゆっくりと下がっていった。このまま落ちたらどうなってしまうのだろう。大惨事じゃないか、そんな事を思いながら気球は田んぼと住宅地の間にある中学校の方向へと向かっていった。

子供の足では追いつける訳もなく、気球は遠ざかる。途中で他に見ていた大人が居た。自転車に乗った見知った酒屋の大将だった。

「カツノリくんも見たんか、トシくんは」

「先、気球、追いかけて……」

「ぜえぜえ言うて、ほらおっちゃんの後ろ乗り」

「はぁ、い」

荷台に乗って掴まり、酒屋の大将が自転車を漕ぎ出す。でっぷりと肥えた彼の身体があたたかくて心地良かった。やがて、中学校に着くと気球は広いグラウンドの中心に不時着するように萎んで降りていった。

宿直の教師や近所に住む教師が駆けつけて対応していた。気球から降りたのはジャンパーとサッカーのキーパーのような手袋をしたやたらと背の高いくりくり赤毛の青い眼の青年だった。

教師の一人が彼と話す。おそらくは英語教師だったのだろう。青年は気球を振り返り申し訳なさそうな表情を見せる。教師が振り返るとグラウンドの中には騒ぎを駆け付けた町民が十数人居た。

「えー、彼はエイドリアン。今日は河原で、気球フェスティバルがあって、彼はプロのパイロットで、招待選手で飛んでいたけど、故障で流されたそうです」

教師と較べてのっぽのエイドリアンが片言の言葉でお詫びする。

「ミナサン、ワタシ、エイドリアン、ソーリー、スマセンデシタ」

町民は彼を見上げつつがやがやと騒ぎながら話しかけていく。

「いやあ、えらい難儀やなあ、ウチ来て甘酒飲むか……」

「とりあえず、大会の委員会に電話して……」

「にいちゃん、おっきいなあ」

そんな中、聞き覚えのある声が響いた。

「なあ、エイドリアンどこから来たん!」

弟だ。大人たちが笑う。エイドリアンがキョトンとした顔をして教師が通訳する。

「アー、ネーデルラント」

「ネーデ……?」

弟が首を捻ると真面目な近所の予備校生が屈んで微笑んだ。

「オランダだよ、本坊寿和くん」

「オランダかあ、なあ、エイドリアン。気球乗せてくれる!?」

「バルーン? オーライ、オーライ、トシカジュ」

「トシでええで!」

すっかり意気投合した様子の弟とエイドリアンを尻目に大人たちは彼の気球を修復するのにあちらこちらへ奔走していた。どうやら、気球が破れて高度が下がっていったらしい。本当に大惨事にならなくてよかったものだ。

夕陽が傾き山の向こうに沈みかけた頃に弟がエイドリアンを誘った。通訳代わりの英語教師が困った顔を見せる。

「センセ、ええやろ。ぼくとこ泊めてあげたいんや」

「だけどねえ、彼は片言だし……そうだ、私の家に寿和くんがくればどうだい?」

「せや! 兄ちゃん、お母ちゃんに言うといて!」

「トシカズ、お前なぁ」

結局、中学の英語教師の家にエイドリアンと弟は泊まった。私は家に帰ると既に電話で連絡されていたようで騒ぎにはならなかった。

夕飯の席、キノコ採りから帰ってきた父が呆れた顔を浮かべていた。

「何や、トシはあれだけ『キノコご飯食べたい』言うてたのになあ」

「そら、気球には勝てませんて」

「似たようなもんやろ」

「何処が」

父と母の夫婦漫才めいた会話を聴きながら夜のアニメを観ている。流行りのゲームが原作のアクションアニメだ。弟も毎週、楽しみに観ていたものだがキャラクターよりも気球と外国人という非日常に完全に惹かれてしまった。

無理もない、何といったって気球だ。本物の気球だ。遊園地の落下傘の遊具とは違う。丸くて大きくて宙に本当に浮かぶ魔法の風船だ。

夕飯はスーパーで買った秋刀魚、キノコの炊き込みご飯、キノコの味噌汁、貰い物の甘柿を切ったもの。

黙々と食べて柿に手を伸ばした母が言う。

「お兄ちゃん、柿やらかいからトシくんの分ももう食べて」

「解った」

◇◇◇

翌日、澄み渡るような高い空に薄い雲すら散っていた。中学校は午前休になって教員と気球の大会の関係者が車で駐車場につけていた。しかし、人の口に戸は立てられぬもので噂を聞きつけた町内の大人や中学校の生徒、小学校の生徒も教師の判断で駆けつけていた。今にして思えば問題だと思う。

バーナーで横になった気球が膨らんでいく。故障があった箇所は直されたようだ。ゴム風船を膨らませるのとは訳が違ってゆっくり、ゆっくりと、ごうごうとバーナーの恐ろしい魔術のように。

気球の籠から離れた脇でエイドリアンが困った様子で子供を宥めている。予想通りというか何というか弟だ。父は会社で居なかったが母は付き添って朝に迎えに行っていた。

「お母ちゃん!」

私が駆け寄る。関係者らしき大人たちが止めに走った。

「坊主、危ないから下がっとき」

「ちゃうんです、ボク、本坊且典、あの、本坊の兄なんです」

「……そうか、おっちゃんが連れてったるからジッと手ぇ繋いで行こか」

案内されて母と弟、エイドリアンの下へ行く。弟は涙を流していた。エイドリアンはますます困った表情を見せていた。

「トシ、ソーリー、デモ、バルーン、ベリーデンジャラス」

「うそつきや、のせてくれるいうたのに……」

「ソーリー、トシ……」

籠から下がった我々と、籠に乗ったエイドリアン。

涙を拭った弟が彼をジッと見つめ、事務的ながらも寂しげな眼でエイドリアンが弟を見つめ、間に響くのは炎を吐くバーナーの音だけだった。

気球は宙に浮かび、ゆっくりと上昇していく。周りからは歓声が上がる。

私の横だけは何も聞こえなかった。

◇◇◇

三十年経ち、早くに死んだ母の年忌を終えて料亭で昼食の席でこんな事があったなあと、すっかり肥えた弟に向かって話しかけた。

「兄ちゃん、よぉ覚えとるなあ」

「トシのあの顔言うたら忘れられへんわ」

私の冷やかしに苦笑いする弟が海老の天ぷらを食べながら何かを思い出した顔をする。

「まあなぁ……でも、去年の初めにオランダに旅行に行ったんよな」

「家族サービスでヨーロッパ一周や言うてたな」

「俺は今、洋食屋やってるやろ? 学校の先輩がそこで知り合ぉた奥さんとレストランやってるて聞いてな。食べに行ったんよ。ほしたら、写真が飾ってあった。〝気球と老けたエイドリアン〟の」

「おっ、ほんまか」

「奥さんの伯父さんらしくてな、たまに食べに来るんやて。せやけど、日程上会われへんかったなあ……」

「そうか……煙草行ってくるわ」

「おう」

表に出て料亭の喫煙スペースで煙草をふかしている。三十年経っても空を見上げる癖というのは抜けてはくれない。今でもエイドリアンがくりくり頭で気球に乗って空を滑って来るんじゃないかという妄想めいた考えも過る。

そこへ、赤い丸が空を飛んだのが見えた――誰かが手を離した風船だ。

「気球にまだ乗ってるか、なんてな」

私は煙草を灰皿に揉み消して料亭の中へと戻っていった。

(初稿:2026/03/03)

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