私の勤める会社にふらりと現れた彼から、怪我の湯治の土産として温泉饅頭を貰った。
我々は早速、茶菓子として呼ばれる事にした。「土産物にうまいものはなし」の典型で可もなく不可もない味だったが、彼は饅頭より面白い話があると鼻息も荒く言って来た。彼の性分からしてこう言った時は決まって猥談である。応接室に案内しろというので人身御供の私と、彼と私の共通の友人で何事にも動じず男勝りの同期の女史で話を聞く事となった。私が饅頭と茶を置く。
彼が話を始める。
「私がスキー場で転倒して大怪我を負ったのは知っているな。数ヶ月地元の病院に入院して退院しても痛みが残った。友人から『良い湯があるから行ってみてはどうだい』と紹介されたのがあの湯治場だった。何も有名な観光地じゃない、さる高僧が錫杖で地面を突いて湧いて出たという言い伝えがある場所だ。昼間は湯に浸かり、骨接ぎに通い、湯に浸かり、夜は旅館に戻って原稿を書いていた」
私が、まだアナログ小説家かい、と問うと、ファクシミリで締切は守ったさ、と。
女史が馬鹿にしたように口を挟む。
「それでいつになったらあんたのお得意の猥談が出てくるのさ」
「黙って聞け」
「はいはい」
話は続く。
「旅館は簡素なもので私以外客は居ないと思っていた。毎日、焼鯖か焼鮭が出てくるだけのつまらん宿さ。ただ、廊下で女性の後姿を見かけた。浴衣姿で泊り客と思って驚いたな。そんなある夜に焼魚がいやに塩辛くてベンダーへ飲み物を買いに行くと彼女に会った。挨拶をすると笑って愛想良く西の訛りで返してきた。浴衣から覗く肺病病みのような浮いた鎖骨が艶っぽく、瓜実顔に高い鼻に大きな黒い瞳、ぷくっとした唇も愛らしくて、横に纏めた長い髪が色気を醸し出していた。思わず見惚れていると彼女の方から誘ってきた。部屋に招かれ……」
女史が鼻で嗤う。
「何だ、結局はいつものあんたの小説と同じじゃないか。オチのないつまらん三文小説」
「最後まで聞け!」
彼は女史を睨みつつ饅頭を頬張った。茶を啜る。
「布団に座って持って来た煙草を燻らせていると彼女が起き上がった。その内に湯浴みの音が聞こえた。実は内湯がある部屋があると宿の女将から聞いていたんだが私の部屋にはなかった。私が煙草を灰皿に消してそこへ向かうと彼女が湯に浸かり笑っていた。その顔は妙な印象を抱いた。畑の鳥除けの眼玉風船があるだろう、それをジッと見つめているような不安になる気持……しかし、私には彼女の声しか聞こえなかった――おいで、と」
私たちは、話の風向きが少し変わったと感じた。
「一歩ずつ内湯に進み、どぶん、と浴槽に入るとそれは変わった。彼女の顔が歪んで溶けたんだ。まるで水の塊に張り付いていた顔がどろりと。まるで熱せられた飴細工のように」
彼は続ける。
「西洋の怪物にスライムというのがあるだろう、私が小さい頃はジェル状のおもちゃが流行って大学時代にはテレビゲームでユーモラスな形のモンスターとして登場したあれだ。スライム女、いや、〝飴細工女〟の方が文学的だな」
私と女史は首を捻るばかりだった。話は更に続く。
「飴細工女は笑いながら口付けをした。その口付けは咽喉を通って何かを胃に落とし込まれた、おそらくは身体の一部だろう。胃の腑が焼けるように熱くコークスでも呑んだように汗が噴き出て来た。そして、飴細工女は全身を包んできた。あらゆるところを刺激してきたよ……」
女史が渋い顔をしている。彼が続けた。
「全身を責められてこのまま心地の良い湯のような身体の中で溺死するのか、と思ったら私は旅館の自分の客室に居た……あとで女将に訊いたら宿泊客は現在私一人。あの女性が居た部屋は空室だった」
しばらく、三人の間に沈黙が流れた。
女史がポケットから煙草を取り出して火をつける。紫煙を吐き出して一言。
「オチが弱いな」
彼は怒りながら帰って行った。
◇◇◇
あれから数ヶ月後、彼は行方不明になった。自宅に訪ねた出版社の編集者が『さがすな』という書置きを発見して騒動に発展した。
私は何となく心当たりがあった。あの湯治場の旅館だ。
女史と二人で車で湯治場へ到着して宿を訪ねると確かに彼は泊まりに来ていた事が解った。しかし、一泊で帰ったという。
裏に回っていた女史が声をかける。
「こっちに鞄がある」
確かに彼の鞄が裏の草叢にあった。書きかけの原稿用紙、愛用の万年筆、帰ったふりをして忍び込んだのであろう。
あらためて内風呂があるという件の客室を案内して貰う。空の浴槽を我々と女将とで覗き込むと女将は腰を抜かして悲鳴を上げた。
「ああ……」
女史が唾でも吐きそうに眉根を寄せる。
浴槽の底には浅い水が張って溶かされたであろう彼と思しきばらばらの人の骨が残っていた。
二人は気付いていなかったかも知れないが、私はその水の中に浮かぶ〝眼〟を確かに見た。
それは、嗤ったように歪み、ゆっくりと栓の抜けた排水口へと流れていき、こぽん、と音を立てて消えた。
(初稿:2024/10/19)
© Magic Mountain Way