外国に暮らす年齢の離れた兄一家が久し振りに正月に帰国した。外国人の義姉と彼女そっくりな美人の姪御は新鮮な表情でお雑煮を啜っていた。
御馳走を食べて美味い酒を呑んだ一日の終わりの夜に兄とリビングでお茶を飲みつつ話す機会があり、話題は私の息子がサッカーをしている事となった。すると、兄は苦笑いをした。そしてポツリ。
「じいちゃんが生きていたらサッカーするの反対しただろうなあ」
「え、何でよ」
私たちの祖父はそんなにサッカーが嫌いだったろうかと疑問に思った。それを察して兄は語り出した。
「お前は子供だったし、俺にだけ愚痴った事だよ」
兄は留学先でそのまま就職してその国の女性と恋に落ちて結婚した。向こうでの結婚式にこちらの父母も呼ぼうとしたが、なにぶん大変な時差があって体力がない母は断念。父一人で向かおうとすると祖父が代わりに行くと宣言した。
当然、周りは止めた。当時、九十を超えていて向こうでポックリなどとなったらえらい事だ。私はまだ子供でぼんやりと見ている外なかった。
しかしながら、用意周到にも隠し持っていたパスポートを取り出して自慢気に見せた。そして、兄の妻となる女性とその家族にも国際電話とエアメールで『結婚式でお会いしましょう』と挨拶を済ましていた。
兄がお茶を啜りながら祖父を懐かしむ。
「じいちゃんは知っての通り、元外資企業の営業マンで語学堪能、社交的で背筋もいつもピンと伸びていて頑固だった。当時、高価だったパソコンを使いこなしたのも親父より早かったな」
「そうだったね」
結局、心配する我々家族一同を尻目に父と祖父は空港を深夜に発ち十二時間超えの機上の人となった。
父が長旅でふらふら、祖父は皺一つない揃いのスーツで目的地の空港に降り立つと兄が迎えに行った。現地は朝だ。兄が家に案内して祖父たちは家族と挨拶を交わす。
兄がその時を振り返る。
「じいちゃんは本当に洒落た人だったよ。通訳なしで俺の奥さんや義理の父さんや母さんにも茶目っ気ありながら余裕のある態度で接して、向こうじゃ『紳士なサムライだった』と今でも語り草だよ」
「へえ」
豪華な料理とワインも呼ばれて上機嫌な祖父と未だにダウンしている父、明日は結婚式だ。それを見て向こうの一家が「家に泊って下さい」と。
しかし、祖父は「こいつは兎も角、ワシまで世話になるのは不義理だ」と潰れた自分の息子である父を任せて一人でホテルを探しに向かった。
異国で地図も持たずのんびりと宿探しをしていた祖父だったが街が騒がしい。民衆が集い、唄い、呑み、騒動を起こし街燈に登っている。そこに下がった旗を見て「しまった」と顔を顰めた。
そこにはサッカーボールのロゴと当時その国で開催されていたサッカーの祭典のシンボルマーク。
私がここで兄の話に割り込む。
「ああ、あの祭騒ぎでサッカーが嫌いになったのかぁ」
「まあ、それもあるが……続きを聞くか」
「うん」
兄が久々に清酒が呑みたいな、と言ったのでとっておきのものを持って来た。冷やで良いかい、と訊くと、その方が良い、と。
祖父は珍しく焦りつつホテルを探した。あちらへ行けどこちらへ行けどこの時期では場末の安宿でも全部埋まっている。ちょっとしたプライドもあり、今更兄たちのところに戻るのも恥かしい。
そこで路地で閑古鳥にしているタクシーの運転手に訊ねてようやく見つけたのは山の上の古城のようなホテルだった。
荘厳な門構えをくぐり、車止めからタクシーを降りる。おそらくは騒乱の時代に建てられた城をホテルとして改装して営業しているのだろうと思った。
入ると薄暗く独特な冷たい土の臭い、フロントの呼鈴を鳴らすと背の高い陰気な印象を与えるフロントマンがやって来た。
値段をぼられるのではないかと思ったが、好きな部屋を使っても良く宿泊代金も良心的だった。但し、シャワーは壊れているのとの事だった。明日一番に公衆シャワーでも使うかと考えて、フロントに翌朝タクシーを呼んでくれと頼み、客室へ向かう。
白いシーツのベッドにクローゼットと年季の入った机と椅子と簡素なものだったが一応電気は通っている。当時でも年代物のラジオと目覚ましが一体化したサイドテーブル。バスルームはトイレは流れるがシャワーは出ない。窓は建付けが悪く動きもしない。火事でもあったら不味いなと思ったが背に腹は代えられない。
祖父は疲れも出て着替えて結婚式に備えて早めに眠りに就く。
しかし、なかなか寝付けずラジオをつけるとサッカーの試合が中継されていた。この国の代表チームと相手との点差は拮抗している。
「じいちゃんがベッドに転がっていると外から大騒ぎの声が聞こえて来た。試合に盛り上がっているのは結構だが寝かせてくれと思ったらしい。表の乱痴気騒ぎを消そうとラジオを捻るもラジオもサッカーの中継、点を取り、点を取られのシーソーゲームだ。その度に歓声と嘆きの声。やがて、試合はペナルティキック。外からもラジオからも歓喜、叫び、怒号……」
祖父のサッカー嫌いがこれか、と思ったが話は続く。
「試合はあと一歩のところで敗れてじいちゃんの大きな溜息と共にホイッスル。同時に表は慟哭に包まれたそうだ。しばらく、怨嗟に似た声が轟いていたがやがて静寂が支配して、これで眠れると思った矢先、だ」
私がアッと思い出したものがある。
「解った、フーリガンだろ」
「……どうかな」
兄は笑いながら酒を傾ける。
「焦らすね」
「まあ、聞いてろ」
私の記憶では、この頃から我が国でも〝フーリガン〟という言葉が世間に馴染み始めたと思う。サッカーチームの熱狂的なファンを通り越して相手チームを襲撃したり暴動を起こしたりする不埒な輩だ。
「表から、ガチャンガチャンと壁を叩く音、すすり泣く声、慟哭、何かが割れる音、破裂音……酷いもんだったらしい。持って来た耳栓をしてシーツに包まって朝まで耐えたそうだ」
「やっぱり、フーリガンじゃないか」
「ふふふ」
「気持悪いよ」
「翌朝、フロントに文句を言おうとしたら『ご迷惑おかけしたのでお代は結構です』、拍子抜けして呼んだタクシーは昨日の運転手。ウチに来て結婚式に参加した。終わってから『サッカーなんか嫌いじゃ』って愚痴ったのがこの話」
「ん? 終わり」
兄が不気味に笑う。
「あの山の上には墓があるんだよ。もっぱら、〝出る〟って噂の古い墓」
私は溜息をついた。
「フーリガンじゃなくてポルターガイストかぁ」
私も何だか呑みたくなったので空いた湯飲みに酒を注いで呑んだ。
「でも、オチが幽霊って弱くない?」
「そうかなあ……あのホテルは〝ない〟んだけどな」
「え?」
兄が静かに続ける。
「あの山の上には古城のようなホテルどころか古城はない。他の民家もない。建物すらない。確かにあるのは古い墓地だけだ。じゃあ、あのホテルは? あのフロントマンは? 案内したタクシーの運転手は? あのラジオの中継は? 出ないシャワーは? 全てが幽霊のせいか? 幻覚か? それにしては余りにも生々しい、じいちゃんは嘘つくような人じゃない。何処に泊ってどうやって無事に帰って来たのか、そう考えると怖いだろ……じいちゃんには最後まで言えずじまいだったけどな」
「……」
この話をする私の前に存在するのは本当に血を分けた実の兄なのか疑いを持ってしまったのは流石に言えなかった。
兄が寝た後、仏間の仏壇に向かい手を合わせて額に飾られた祖父の写真を見上げる。祖父は兄の結婚式の一年後に眠ったままの大往生だった。前日迄、普段通りに過ごし「明日はステーキが食べたいな」と言っていた。
何か言葉が出かけたが、写真の中の祖父の顔が歪みそうでやめた。世の中、知らずにいた方が良い事もあると感じた。
(初稿:2026/02/16)
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