姜は雪山を必死に登り逃げていた。街道からは大きく逸れ冬眠をしない獣の足跡すらついていない新雪に足を取られながら裏切った仲間を振返る事なく進む。
最初に行商人から奪い取った荷物の中に砂金の袋があり仲間の一人の呂が一緒に掠め取ろうと誘ったのがそもそもの間違いの始まりだった。呂はあっさりと野盗の頭目の弩で頭を射られ飛んできた砂金の袋を受け取ってしまったが為に命懸けで逃げている。
遠くに怒号が聞こえる。いっそ、身を崖から投げた方が楽になれるだろうか。足が縺れ雪に顔を埋める。野盗崩れにまで落ちて最期はこんなものか、そう思った瞬間涙が溢れてきた。どうせなら、この袋の中身を盛大にばら撒いてやろうかと顔を上げると滲んだ視線の先に灯りが見えた。
ここいらは人家などある訳がないと思ったが、光は消えてはいない。確かにそこにある。姜は俄に助かるかも知れないと感じていた。
雪を踏み締め近付くと信じられない光景が広がっていた。光は大邸宅いや館の門扉の松明だった。姜がぽかんとしていると門番らしき寸足らずの毛むくじゃらの白いもさもさとした生き物が近付いて槍を突き立てた。
「何だおめは、ぬすっとか!」
「しゃ、喋った……」
「んあ、おらだちは耶提だど。文句あっが!」
耶提――雪山に住まう毛だらけの野人と聞くが人間の言葉を話すとは姜は聞いてはなかった。耶提が槍の先をちらつかせる。
「くぬごろは野盗があきんどを襲うともっぱらのうわさだ、おめもそだろ!」
「ち、違います。俺……私はその行商人でして野盗に襲われ命からがら逃げて来たのです。牛も荷物も食糧も失ってしまいましたが……」
「んあ……本当かあ?」
「その御方を入れて上げなさい。ずいぶんと苦労なさったそうよ……」
不意にか細い女性の声が聞こえた。姜と耶提がその方向を見る。そこには背の高い痩身の美女が立っていた。館まで雪は退かされているが薄手の旗袍に毛皮の外套は寒そうに見える。しかし、長煙管をふかした長い白髪の血の気を感じさせない様子は震え一つ見せてはいない。
年齢は三十とも手や首元に皺はないが筋張っていて下手をすれば五十の大年増とも取れるようにも見える。既に乙女の瑞々しさよりは熟れた大人の女性の魅力を醸し出しつつ枯れてはいない艶っぽい色気が全体にある。胸はやや豊満でそれでいてすらりとした無駄の肉のない身体つきだ。何処か達観したような眼元も浮世離れしている。
煙管の吸口を咥える唇だけが紅を差して明るいだけで他はこの静かな夜が作り出した偽物のように思えてならない存在だった。
耶提が不満気に槍をおさめる。
「冰鏡さま、こいつはたしかに野盗ちゅうより小役人面でがすが、館に入れるとなると」
「野盗なら、あなた以外に任せたらどうかしら……」
この館の女主――冰鏡が煙管から口を離してふうっと紫煙を吹き出す。そして笑う。
「それに、こんな男前の御方が野盗だなんて、可笑しいわ……」
「んあ……」
耶提が口を開いて考え閉じて姜を睨む。
「しゃあねど、冰鏡さまが特別に赦しを出してくださっただからな!」
◇◇◇
姜はこの時ばかりは善人面の美男に産んでくれた両親に感謝していた。
館は想像以上に広く夜警の耶提たちがうろついていたり、夜だというのに小さな子供の耶提が雪遊びをしていた。廊下には高価な焼物の壺やまさに耶提が器用に雪像を作っているのが見えた。そんな中でいやに精巧な手足のない氷像があった。苦悶に満ちた男でまるで動きそうだ。立ち止まって眺めていると横に居た耶提が牙を剥いて威嚇してきた。
「こちらですよ……」
冰鏡に促され客間に通されしばらく待つと料理が運ばれた。
「生憎、この時期は肉も野菜も新鮮なものがないのでごめんなさい。さあ、あたたかい内に……」
「い、頂きます」
机に給仕係の耶提が解した肉と餅米を白菜で巻いて煮たものを皿に出した。湯気が上がり、姜がばくりと齧り付くと旨味溢れる汁が口の中に流れ張り詰めていた気持も一気にとけていった。
「ううっ、ううう……」
耶提が呆れた顔を浮かべる。
「おめ、泣くこだあ、ねだろ」
「そっとしておあげなさい……」
泣きながら兎角、生きているのが有難いと姜は思った。
◇◇◇
通された寝室の良い香りのするやわらかい毛布に包まりながら姜はどうすべきか思案していた。このままやり過ごすのも手だが仲間が来るのも時間の問題だろう。既に二親をなくし守るべき家族も居ない。だからこそ、仕事を失い悪友に誘われるがまま野盗になってしまった。物を盗み人を殺め堕ちるところまで堕ちた。持ってきた荷物は命を守りつつ奪ってきた相棒代わりの牛刀と舶来の酒の小瓶と例の砂金の袋だ。
しかしながら、こんなところに行商人が立ち寄るだろうかと考えた。街道からは外れ今迄、気付かなかった辺鄙な場所である。そもそもあれだけ居た耶提を養うのに食料はどうしているのだろう。考えれば考える程、謎が渦巻いている。まさか、自分たちよりひどい人喰いの物怪ではなかろうか。あの美女、冰鏡も人間離れしている。
(厠……)
考えて眠れない内に催してきたので寝室から抜けると空は白み始め昨日の悪夢のような夜が嘘のように見えた。館の塀の向こうはどうやら東らしい。耶提たちも雪に腰掛けうとうととしているものが多い。
(寒くないのか)
長い廊下を彷徨いていると微かに呻き声が聞こえてきた。それは聞き覚えのある男の声だった。その方向へ恐る恐る歩いていくと廊下には血溜まりが出来ていた。その先の半開きの扉から声が聞こえる。
「た……けて……すけて……くれ……」
呆然としつつ姜がゆっくりと扉を開ける。
そこには、虫の息の野盗仲間と多くの死体が転がっていた。
「ひっ」
言葉を失った姜が尻餅をつく。すると後ろから声をかけられた。
「見ただな」
耶提の言葉と共に姜の後頭部に衝撃が走る。彼はそのまま気を失った。
◇◇◇
姜は夢を見ていた。それは夢と自覚出来るもので幼い頃のものだった。酪農をしていた両親は貧しい暮らしながらも愚痴一つこぼさず無口に働いていた。
ある時に牛が死産であった日があった。それは確かにあった事実だ。姜がものの分別がつく齢で、母親は黙って鳴き止まぬ母牛から死んだ子牛を離そうとしていた。子供には残酷に見えて必死に止めようとしていた。父親が子牛の死体を引っ張っていく。それを俯瞰で見ている。
何て夢だろう。急に視線が幼い姜のそれになる。そこから見えた脚を引き摺られ捨てられていく子牛の顔はまさしく額を矢で射抜かれた野盗仲間の呂のものだった。絶句すると呂の顔は現在の自分の顔になった。そこに女性の声が響いた。
「お目覚め、かしら……」
「あ、うぁ、あ」
姜が悪夢から目覚めると自身が裸にされて四肢が鎖で繋がれて自由を奪われていると気付いた。そしてその眼の前に冰鏡が立っていた。
「どこ、だ」
「私の部屋よ……」
泥の中に沈められたような吐きたくなるような気分で姜は頭がぐるぐると回り強烈な眩暈を感じていた。
冰鏡が微笑みながら彼の腕を取る。氷で撫でられたような冷たさがある。いや、事実、姜の手の感覚がなくなってきている。ゆっくりと右腕を見ると血の気が引いているどころか真っ白な氷の柱になっている。
「うわぁぁぁああ! なっ、何だっ! なあ、えっ!」
「私は、雪女……知らないかしら……」
「あっ、えっ、雪っ!? えっ、ええっ!!」
冰鏡がその長い白髪を揺らす。
「耶提と同じ物怪よ……あの子たちは勝手に雪の女神さまだなんて持ち上げているけど、私はどうでもいいの……単なる女の形をした氷の化物よ……」
ふうっ、と息を吐くと雪の結晶が浮かんだ。雪女、と冰鏡は言ったがまさしく人の命を虫けらとも思っていない圧倒的な力を持った知性のある物怪だ。
姜がぱくぱくと魚のように口を開けたり閉じたりしている。俄には信じられない状況を受け入れられないようだ。
冰鏡が姜の唇に指を置きゆっくりと首筋、胸、腹と這わせていく。そこには氷が生きているような感覚に襲われるようだった。冷たく痛く背筋に悪寒が走る。
「うふふ……」
狂っている、姜にはそう見えた。普通の美女にまだ見られたかも知れないが、この状況では狂気に過ぎなかった。
「可愛い……」
「や、やめ」
「ちゅぅ……」
冰鏡の唇がそこだけ別の意思を持った軟体の生物のように吸い付き蠢く。四肢の自由を奪われた姜が背を反らす。
しかし、姜の頭部が見る見る内に真っ白になっていった。冰鏡が唇を離す。既に凍り付いた姜はまったく動かない。
「面白いわねえ、脳天が凍っても、まだ心臓は動いてる……とん、とん……とん、とん……」
冰鏡が姜の胸を指で杭を打つように動かしていく。しかし、既にそこに生命の動きはない。この部屋には、人のかたちをした物怪が妖し気に嗤っているだけだった。
「うふふ、あはは、可笑しい……」
動かなくなった姜を尻目に部屋の扉が叩かれた。
「入りなさい……」
「冰鏡さま、こいつこんなもの持ってましただ」
耶提が姜の荷物を持って来た。
「あらあら……いけない子だったのね……」
机の上に開かれた袋から黄金の光の粒が溢れた。
◇◇◇
「冰鏡さま、この前の氷像どうすっぺか」
「そうねえ……今回は思いの外、良いものが手に入ったから潮時かしら……」
「じゃあ、もうこぼしますだ」
「そうして頂戴、いつまでも同じは飽きるからね……」
「ほーれ、さいならだ!」
氷像が砕ける音が響いた。
(初稿:2024/11/06)
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