Magic Mountain Way

チャイナタウン・エレジー

私は滞在先の異国の街での最後の夜をどう過ごそうか考えあぐねていた。

明日にはもう帰国しているだろう。この街は仕事で来たとは言え私の性質にはどうにも合わなかった。空気は乾き切っていて咽喉が無性に渇き、食事も大味で脂っぽいだけでたいした事はない。ホテルを出て煙草を喫い近くのレストランに向かう気も余りなかった。

だからだろうか、ちょっとした好奇心で街の外れまで歩いていったのは。

私も大人の男であるし治安は良い方だと聞いていたので、呑気に街路灯が少ない場所まで足を運んでいった。徐々に海の方角へと近付いていって家屋も少なくなっていった。道の向こうに夕陽が沈んだ。

ふと、甘い香りが鼻先に届いた。何処か懐かしいような、それでいて本能を刺激するような香りだった。私はそれに釣られるままに足を進めた。すると朽ちかけた牌楼が眼の前に現れた。

そこは小さな中華街だった。私は少し驚いた。異国のこの街にこんな場所があるとは思ってもみなかったからだ。牌楼をくぐって中華街の中に入るとそこは独特の雰囲気が漂っていた。

しかし、私は妙な感覚を受けた。店の提灯は灯り何処も開いているが、どういう訳か通りにも店にも客も店主も誰一人居ない。人の気配がまったくない。ぷうんと食べ物の油の匂いがするから廃屋という訳ではなさそうだ。私は不思議に思いながら足を進めていった。

ある店先には、一体誰が食べるであろう、元が何の動物か解らない巨大な肉の塊がぶら下がっている。

違う店先には見た事のない色の香辛料がたっぷり詰まった瓶が並べられている。

私は少し空腹を感じながら歩みを進めていく。

何処か人は居ないものか、そう思っていた矢先、私を呼び止める声がした。

その言葉はこの国の言葉ではない、ここではないまた異国の言葉だった。

その声の方向へと視線を移すと旗袍に身を纏ったすらりとした美女が立っていた。

齢の頃なら二十そこらかそれとも後半か、幾つとも取れない妙齢な表情。白い肌に目立つ高い鼻梁、細く切り揃えた眉の下の大きく吸い込まれそうな黒い瞳、長い艶のある黒髪を二つに結び私を見つめて微笑んでいる。

私は取りあえず通じるだろうとこの国の公用語で挨拶をした。それに彼女は黙ってにこりと微笑み返した。

彼女がゆっくりと私の方へと近付いてきた。私は咽喉が少しひりひりと渇くような妙な感覚を受けていた。乾いたこの国の空気の所為だけではない。妙な感覚だ。

彼女は微笑みながら私の手を取った。それはひんやりとしてまるで氷像でも触ったかのような冷たい手だった。そして私の身体を少し引っ張って一緒に行こうとも言わんばかりに瞳を向け異国の言葉を話した。

それに対して私は彼女のなすがままについて行った。ゆっくりと私たちは古びた楼閣の中へと入っていった。仄暗い灯りが照らされた楼閣の上の部屋、そこは汗ばむまでの室温と噎せ返るような甘い香りに満ちていた。

私は頭がくらくらとする感覚に陥っていった。その所為か、彼女がゆっくりと私を部屋の中心に配された天蓋付きの寝台に押し倒すのも気にならなかった。

ぎしりと寝台に音を立てて私が仰向けに倒れ込むのを見て彼女はまた妖艶な笑みを見せる。

彼女は唇を舐めずり静かに異国の言葉を呟く。それは私には理解出来ないものだった。そして旗袍の裾をたくし上げていく。私の頭は余り動いてはくれなかった。ただ、ぼんやりと彼女の所作を見つめるしかなかった。

しかし、たくし上げた旗袍の裾から見えるものに私は愕然とさせられた。

そこには人間にあるべきもの、二本の足がなかったからだ。そこに存在していたのはびっしりと生えた鱗に覆われた巨大な太い蛇の胴体だった。

私は言葉を失った。しかし、彼女は微笑みながら寝台の上にその蛇の身体を乗り込ませる。大蛇の下半身の重みに寝台が音を立てて沈んでいく。ずるずると大蛇が動く音が聞こえる。私はそういった爬虫類専門の動植物園でも聞いた事はないが、太古に祖先が猿であった本能で認識していたのだろう。

呆然とする私を尻目に異国の言葉を呟きながら彼女は私に顔を寄せる。そして私の唇をそっと奪った。彼女の唇はとてもやわらかであったが、この世のものとは思えないぐらい冷たかった。

唇から舌が伸ばされて私の口唇の周りをなぞるように動いていく。そしてそれは濃厚なものへと変わっていく。それは独特な甘い香りのする口付けだった。

私はただただ彼女の思うままにその身を任せていた。痺れるような感覚、それは今までに体験した事のない不思議な感覚だった。

彼女がようやく唇を離した。そしてまた妖艶に私を見つめて笑う。その瞳は瞳孔が少し縦に狭まっているように見えた。

やはり、彼女は人間ではない。

私はそれを見た時に諦めにも似たような感情をもって確信をした。しかし、私の身体は動いてはくれなかった。先程の口付けがそうさせたのだろうか。

私が眼を離せずにいるのに彼女が気付くと少し違う表情を見せた。照れているかのような、しかしそれも束の間、彼女が身体を私に圧し掛からせる。

彼女は唇の端から舌を見せ私を見つめる。そしてもう一度私の唇を塞いだ。ゆっくりと彼女の蛇の下半身が私の身体に巻きついていく。それは傍から見ると大蛇が水牛を絞め殺す様子に似ていたのかも知れない。

しかし、私は不思議と不快感なかった。まるで母の胸の中に抱かれているかのようなそれは心地の良い感覚だった。

この時間がいつまでも続いて欲しいと感じたのはどうしてだろう。それは自然な事なのかも知れない。

私はいつしか意識を失った。ただ、彼女が満足気に微笑んだ事は何故か記憶に残っている。何かを彼女が呟いた。

相変わらず何を意味するかは、解らない。

私は気が付けばひと気の無い草叢で寝そべっていた。服も乱れておらずそのままだった。辺りには明かりすら灯っていない。見渡してもそこには先程まで居た筈の中華街が存在していなかった。

すべてが幻だったのだろうか。

私は呆然としながら立ち上がった。すると草叢から何かがずるずると引き摺るような音が聞こえた。それと共に独特な甘い香りが鼻に届いた。

それは彼女の口付けの時の香りだった。

私はそれに、またここに来るのかも知れないと思って静かに立ち去った。

◇◇◇

あれから数年経って、私は再び幻の夜を体験した異国へ降り立った。

街は再開発がされており、かつて泊まったホテルも綺麗になっていたが料金も高くなり富裕層の他の国の観光客も多かった。煙草も喫えるところが少なくなり一気に時代に取り残された気分だった。

黄昏時、私の足は街の外れ、海の方向へ向かう。長い道の向こうに夕陽が見える。辿り着いた草叢には何の痕跡もなかった。牌楼も、吊るされた肉も、灯りも、何もかも。

私は何を期待していたのだろう。

踵を返し元来た道を戻ろうとすると、何かを摺る音が聞こえた。私は立ち止まりゆっくりと振返る。

暗い草叢の中にぼんやりと人の姿が見える。沈む瞬間の夕陽がそこへ届いた。

黒い影、光る二つの眼。太陽が落ちて、女性の声がする。あの時と同じだが、今回は聞き取れた。いや、その意味が直接、脳に響いてきた。

――待っていたわ。

私は歩みを進めて草を踏み分け入っていく。そして、その手を取る。〝彼女〟が冷たい腕を私の首に回し、口付けをする。

甘い香りがした。

(初稿:2010/05/19)

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