春樹は抜けるような澄んだ水色の空を背負った山並みをフレームに収めてシャッターを切った。その先には夕陽に正対し鮮やかな赤に染まるあまりにも見事なアーベントロートが現れていた。それはカメラマン魂を揺さぶられるもので、陽が落ち一気に山道が暗くなったのに気付くのも数秒経ってからだった。
「さてと、どうするかな」
カメラをケースに仕舞いながらひとりごちた。フリーの風景カメラマンという職業柄、野宿というものには慣れたもので今回もそれ用の装備をザックに背負っている。
山の持ち主の老人は以前春樹の撮った写真に惚れ込み「好きに山を使ってくれてもええぞ、あんたに撮って貰ったら山の神さんも喜ぶやろからな」と人懐っこい笑顔を見せていた。
秋の足音が聞こえ、山の夜は特に冷える。風がないのがせめてもの幸いだろうか。今から山を降りるのも危なく何処か開けていて休めるところはないかと取りあえず登山ライトを点けて山道を歩いていっている。一応、あてにしている休息出来る場所はあるが、広い場所で地面が乾いていて突然の雨に濡れないところがいいと考えている。持参してきた位置測位装置を確認しながら十数分ほど進んだところだろうか、ふと細い脇道が視界に入ってきた。
(こんな道もあったんだ)
ライトを足元に向けると何やら小さな石柱のようなものが折れて横倒しになっている。しゃがみ込んで表面の泥を拭い取ると風化して薄れてしまっているが『神社』という字が刻み込まれているのを確認した。
(へえ、神社なんてあったんだ……)
そう思いながら脇道の先を見据える。
その時、一瞬、ざあっと風が吹いた。この季節には似つかわしくないような生あたたかい風だ。春樹が来た道を振返る。それは道の向こうから神社がある方に向かって吹くもので歩いてきた道へ向けていたライトがちかちかと点滅した。
「あれ……おかしいな」
電源を何度か押して確認するも今にも消えそうになった。くるりと神社への道に向けると直った。再び来た道を向くと灯りは完全に消えた。今迄の道の向こうは闇が支配していた。神社へ続くと言う道にライトを向けると灯りは点いたが、深い闇に包まれ細い一筋の光では何も届かないような気がしていた。それでもライトは同じ動作を繰返し、この道を進むしかなかった。
「……神様がお呼びかな」
少々、冗談めいて足を運ぶ。風は止んだ。予定を変更して脇道を進んでいく。しばらく細い山道を歩いていくと急に開けた場所に辿り着いた。どうやらここが神社のようだ。
鳥居はなく、幅の広い古い時代の石段、小さな境内と、細い参道奥には葺いた屋根が剥がれ、柱は虫に食われ、所々に穴の空いた殆ど朽ちかけた小さな神殿が存在している。手水舎や狛犬はないがそれらしい跡はあって長い間、参拝者も居ないのを見受けられる。
春樹は境内の脇の少し開けたところに背負っていたザックを下ろすと一息ついた。時間はもう麓の街では夕食の時間だろう、彼の胃袋も空腹の声をあげている。荷物を解いてランタンの灯りを用意しテントを張り食事の準備をしていると神殿の方を気にした。
(そうだ、一晩借りるんだから挨拶をしないと)
春樹が神殿に向かって歩いて改まる。
「一晩、貸して頂きます」
眼を瞑り柏手を打った。正しい作法とかは詳しくはないが忘れられた神様も大目に見てくれるだろうと考えた。頭を深く下げて振り返るとゴトリ、と後ろから何やら物音がした。
「えっ」
春樹がその音に神殿を振り返るとゆっくりと軋んだ音を立てて戸が半分開いているのが眼に入った。そしてどう聞いても人の呻き声とも取れる声が聞こえてきた。
「ぅぅう……」
ふっ、と開いた戸を覗くと和服姿の長い髪の女性が一人倒れている。春樹は流石にこれには驚いた。まさかこんな場所に人が居るとは思っていなかったからだ。慌てて彼女に駆け寄って抱き起こす。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
すると何やらもごもごと呟いている。
「どうしたんですか、大丈夫ですか?」
彼女の口に耳元を当てるとはっきりとその言葉が聞き取れた。
「……腹が、減った」
◇◇◇
「おかわり!」
そう言って空になった即席カレーが入っていたキャンプ用の器を彼女が春樹に差し出す。
「……三分間、待って下さい」
そう次の袋のアルファ米と即席カレーをヒートパックの袋に入れて温めるも、どうにもこうにも春樹はこの状況が今一つ飲み込めていなかった。朽ち果てた社から出てきた彼女は兎にも角にも「腹が減った腹が減った」と言って食べ物をせがんできた。
改めてその彼女を見つめる。齢の頃は二十過ぎだろうか。長く艶のある黒髪に思わず魅入られてしまいそうな金色の大きな瞳、そして鼻筋の通った顔立ち。眉は細筆で描いたように鋭く、額も狭過ぎず健康的な印象を与える。肌理細かく肌の白さが映り出ていて街中であればすれ違う誰もが振り返るだろう美女だ。服装は、この神社の関係者なのだろうか、少し派手な柄の和装で纏められている。
「もう良いかの?」
彼女が春樹に向かい涎を垂らしそうな様子でヒートパックを前に問いかける。
「えっ、ああ、もう良いですよ。器が熱くなりますから取手を持って、気を付けて」
春樹がご飯とカレーを器に移して渡す。
「じゃあ……あち、あちち……うーん、この辛汁飯は美味いのう」
「だから、熱いから気を付けてって……」
「美味い、美味い、美味いのう……」
顔を綻ばせながらカレーを食べる彼女は純粋無垢な子供のようだ。そんな彼女を見ながら春樹が訊ねる。
「ところで、えーっと……僕は高山春樹と言います。お名前は?」
「名前、儂のか?」
「ええ」
彼女がカレーを食べ終えると改まって春樹に正対する。
「儂は『みづち』と申す」
そういって地面にスプーンを逆さにしてガリガリと名前を書く。『美』しい『鎚』と書いて『美鎚』というそうだ。
「美鎚さん……ところでどうしたんですか、こんな山の中で独り飢えに苦しんでいたなんて」
やや呆れながら春樹が美鎚に尋ねる。
「飢えにも苦しむわい、何せしばらく眠っておったからのう」
「眠っていた?」
「そうじゃな、数十年ほど」
「数十年……数十年?」
流石に春樹は訝しげに思うしかなかった。こんな人里離れた山奥の朽ちかけた神社に数十年で独りっきり、到底信じられない言葉だった。
「えっと、何処から手をつければ良いんですか?」
「何処からも何も、儂はこの社の主じゃからの」
「主?」
「そう、この神社の祭神じゃ」
「祭神……つまり、神様って事ですか? あなたがぁ?」
「そうじゃ」
素っ気無くとんでもない事を言う美鎚。元より信心深い性格ではない春樹にはまるでペテン話でも聞かされているような感覚だった。そんな春樹を余所に美鎚は語り始めた。
「今から、そうじゃな……もう随分前になるかの。あの長い戦が終わってから人足がとんと絶えてしもうた」
美鎚が器を置いて何処か遠くを見るように夜空を見上げた。気付けば山の中の壮大な星空が広がっている。
「あれから一晩、そしてまた一晩、そしてまた夜が過ぎていった……」
春樹は黙って美鎚の話に耳を傾ける。
「無駄な力を使わぬようにいつの間にやら眠りこけて、そして今宵お主がここに来た訳じゃ、久々の人の気にあてられて出てこようとしたらの、すっかり力が抜けてしもうたわい」
「……」
そうして美鎚があらたまって春樹に向かい微笑む。美鎚に見つめられている春樹は恐らく顔を顰めていたのだろう。美鎚がそれに気付き眉根を寄せる。
「何じゃお主、信じておらんようじゃの」
「そりゃまあ……いきなりそんな話をされてもねえ……」
「うむぅっ」
その言葉が気に障ったのか、美鎚が不機嫌な顔で腰を上げる。そして美鎚が眼を瞑り、どろん、と太鼓を叩くような音がしたと思うと春樹の眼の前には驚くべき光景が広がった。
この狭い境内をいっぱいに埋めるかのような、まるで北国の祭の山車灯籠の大きさ程の巨大な、まさしく化物と言っても差し支えのない白蛇がそこに存在していたのだから。大蛇の金色の眼が春樹を捉える。
『どうじゃ、これで信じるかの』
余りの出来事に春樹が呆気にとられていると地鳴りのような重低音が辺りいっぱいに響いた、どうやらこれが大蛇の美鎚の声のようだ。
「……は、ははは、はい、はは、ははは……」
春樹は思わず笑ってしまった。人間、信じられない出来事に遭遇すると奇妙に笑ってしまうというのは本当のようだ。
『納得して貰って大いに結構じゃ』
そう言って大蛇の鎌首が大きく擡げられる。春樹は夢でも見ているのかと自身の頬を少し抓ってみる。痛みがじんじんと走る。どうやら夢ではないようだ。
『ところで……春樹、と申したの』
「……はい、高山春樹と申します」
『お主の振舞いで腹はくちくなったが、儂はまだ足らぬのう』
その言葉と共にじっくりと春樹の周りを取り囲むかのように大蛇の身体が狭まっていく。ずっ、ずずっ、と地面に大きな蛇の胴体が擦れる音が響く。
「足ら、ない……」
美鎚の言葉に春樹は思わず唾を飲んだ。そしてあっと言う間に蛇の身体がじわじわと春樹の身体を包んでいく。彼を見つめる大蛇が嗤ったように見えた。
(食われる)
その四文字が春樹の脳裏に過ぎった。身体の端から伝わる強い力に思わず春樹は眼を瞑った。すると、意外な感触が春樹に伝わってきた。それは心地の良い感覚。気付けば美鎚の口先が春樹の唇に触れていた。しばらく呆然としていたが離されて春樹が我に返る。
「ちょ、ちょっと、何をやってるんですか」
「んー……いや、長い間で力がすっかり衰えてしまっているのでの……儂のような妖かしが手っ取り早く力を回復するには人間の〝気〟が一番良いのじゃ」
「〝気〟って……生命力か何かですか……」
「そうじゃな。何じゃお主、怖気付いておるのか……ほれ、ふふっ……」
美鎚はそう言って今度は額に息を落として微笑む。
気が付けば美鎚の腰から下は、人間の二本足とは違う、太く長い一本の白蛇の胴体のものとなっている。先程の大蛇の姿よりは小さいものの、密林に潜む牛を締めるという蛇よりも太く長く人など簡単に潰しそうだ。美鎚が器用に蛇の身体を動かしとぐろを巻いていく。
「ふふふ……怖いかの? 見ての通り儂は蛇の妖かし、とは言え五穀豊穣の祭神でもあるがな」
「す、すごいですね、ちょっと、こわいですけど……」
「その割には震えは収まったようじゃがの、かかか!」
美鎚はからからと笑い、春樹は放心して大きく息をついていた。
「はぁ……はぁあああ」
「ほれ、痛くはせぬぞ。良いか」
「はい……」
美鎚は蛇の尾を春樹の身体を包むように巻き付ける。身体の自由を奪われた春樹のちょうど眼の前に下半身の大蛇からは想像もつかない柔らかさとあたたかさが服越しに伝わる。美鎚が豊かな自身の女性の象徴に埋もれた春樹に向かい笑いかける。
「お主、もう少し〝気〟を分けておくれ……」
「は、はぁ」
「ふふ、可愛い顔じゃ」
夜の山は静寂に包まれて更けていった。
◇◇◇
翌朝、山道を下りていく春樹。背負ったザックの隙間から顔を出す一匹の小さな白蛇、美鎚が姿を変えたものだ。ザックから飛び出て春樹の首に巻き付く。
「苦しいですよ、美鎚さん」
『何を言うか、こんなに美味い気の持ち主をそう簡単に離すものか。しばらくは付き合ってもらうぞ』
「はぁ……そうですか」
『それよりもお主が儂を拒まんのが驚きじゃな、余程の数寄者か』
「いや、いやぁ……どうなんですかね?」
『儂に訊くな! まったく……』
春樹が道を振り返って美鎚に声をかける。
「良いんですか、神社は?」
『ああ、もう皆に忘れられた社じゃ、役目を終えて何れは朽ちるさだめよ……』
美鎚が振り返らずに春樹を見つめる。
『それに儂はもう寂しいのは堪忍じゃ』
そう春樹に甘えるように蛇の身体を蠢かせる美鎚。
『それよりも麓はどうなっておるのかのう』
「昔とは随分変わってる筈ですよ」
『楽しみじゃのう』
美鎚の春樹への首の締め付けがギュッと強くなった。
「ぐえ、やめて下さい」
『これから、よろしく頼むぞ』
「触らぬ神に何とやら、か……」
『むぅ、何じゃ』
「いえ、何も」
春樹は少し笑いゆっくりと歩みを進める。眼下に見える麓の街並みは綺麗な朝の光を受け輝いている。
(初稿:2009/07/08)
© Magic Mountain Way