休日の昼間、私はリビングのソファに座り推理小説の文庫本を読みながら過ごしている。友人は犯人を考察しながら読むというが私は謎解きを単純に娯楽として受け取っている。そこへ妻の瑠璃子が入ってきてリモコンを取ってテレビをつける。彼女が私の隣へ座りバラエティ番組を見て笑う。すると画面に映った大御所俳優を見てこう言った。
「うわあ、今日はまたえげつない〝巳ぃさん〟出たあるわ」
「ん?」
結婚して十数年、未だに彼女の郷里の訛りが抜けずまるで少女のように笑う。惚気に聞こえるが実際とびっきりに若々しく美しいままなのは有難い。文庫を閉じて瑠璃子に問いかける。
「瑠璃子。今、キミは何て言ったの。みー……」
「ああ、みぃさん。蛇やな。蛇の神さん、巳さんやね」
「あー、キミの霊能力ってヤツ……」
「そう、アンタが未だに信じてへんウチの力」
瑠璃子は霊能力があると嘯いてやまない。無論、普段は表に出さずに上手く世渡りをしている。彼女曰く、テレビに映っている大御所俳優は身体に輝く白い大蛇が絡んでいるように〝視える〟らしい。
彼女が机の上の菓子受けからおかきを摘まみ齧って話を続ける。
「気になってこの人調べたんよ。古本屋で自伝とか見付けてな」
「ゴーストライターが書いたんじゃないの」
「いや、口述筆記やし。それにエッセイも十数冊出てるで、読書家のアンタ知らんの」
「芸能人の本は趣味の範疇外だからねえ」
「ほんまに……ほいで、小さい頃に火事に遭うて家族は皆死んでもうたけど自分の部屋だけ丸い形に焼け残ったって。畳が丸く円の形で残っててんて」
「ふんふん」
「その後に遠縁の親族に引き取られて、大きなって映画会社に大部屋俳優で入ったらいきなり主演に抜擢」
「ほうほう」
「映画会社の社長から『蛇のような冷たい眼が気に入った』の鶴の一声やって」
「へー」
「ここから売れに売れて、浮名を流してプレイボーイ生活」
「それから先は知ってるよ。でも……」
「そう、最初の相手から心中未遂を起こされて、次はひどいアルコール中毒、次が突然の失踪、最後の女性も違法賭博で……」
「改めて聞くと凄いね」
「せやろ、あんまりにも不幸が続くんで霊能力者に見て貰ろたら〝嫉妬深い蛇女の神様が護っておられます〟やって」
「護ってる? 蛇が憑り付いているんじゃなくて?」
「その霊能力者も行方不明になったそうやで」
「うへー、怖いね」
「調べて見てみ、色んな形でウチみたいな人にあの巳ぃさん見られてるから」
瑠璃子がポットから湯呑みに茶を注ぎ啜る。ふと、横目に見えたその瞳が爬虫類のように見えたのは気のせいだろうか。彼女がポツリと小さく呟いた。
「……アンタも、な」
「何?」
「ん、いや、何でもない。ちゅーしよ」
「やめてよ、昼間から。いいトシなんだから……」
「ええやんかー、ほら……ちゅ」
「んむ」
◇◇◇
深夜、いつものように瑠璃子の腕の中でうつらうつらとしながら浅い夢を見ていた。私の腕枕は固いから嫌と言ってそれ以降毎日彼女にされている。夢は初めて出逢った時のものだ。
大学の卒業旅行で男三人むさい連中で登山をし麓の温泉旅館に泊まろうとした時、射的屋で一人夢中になっていた後ろ姿が瑠璃子だった。
友人が「ナンパしてこいよ」と冷やかして軽い気持で近付いたらとんとん拍子に彼女の泊まる宿に招待された。無論、友人たちからは冷ややかな眼で見られた。
旅先の出逢いでそこで別れるかなと思ったら、就職した会社の近くの喫茶店で彼女は働いていた。これまた、すんなり付き合う事となった。彼女は積極的な女性でリードしてくれデートも楽しみ結婚の約束もした。だが、悲しい事に私も彼女も子供が出来難い体質だった。二人で幸せなら良いと抱き締め合って泣いた夜もあった。
結婚してしばらく経ち生活も落ち着いて郊外に家を購入した。庭には季節の果物がなっている。彼女が色付いたベリーを摘んで食べて笑う。いつまでも綺麗だな、と感じたのはこの頃だ。
ある時、庭先で蛇の鱗を見付けた。彼女が怖がるかなと悪戯心に見せると、縁起がいいから貰っておくわ、と財布に仕舞ったので拍子抜けした。
今、瑠璃子の声が遠くに聞こえる。
「……ええよ。よぉ寝えや。かいらし、かいらし、ウチの〝つがい〟……」
◇◇◇
深夜、彼を抱擁しながら寝かしつける。腕の中で彼が完全に眠りに落ち呼吸も深いものになったのを確認してから〝本当の姿〟へと戻る。
人間の身体にも大分慣れたけど、いつかは終わりが来てしまう。それまでに楽しもう。折角の快楽を得られる身体なのだから。彼の為に料理を作る両手、共に笑う歯の生えた口、偽りの涙を流す眼。彼に慈しみを与える二つの乳房。
その身体から溶けるように一本の太い鱗の持ち主の黒い大蛇へと変化する。そっと彼の身体に自身の蛇の胴体を巻き付ける。最初は全身をくまなく、徐々に心臓を止めるようにきつく。
――ああ、愛おしや。その鼓動が伝わってくる。
昼間、冗談めいて画面の向こうの老人に蛇が取り憑いていると言ったな。それは〝お前〟も同じ……〝我〟も同じだ。違うのは我は闇に溶ける黒い〝くちなわ〟というだけ。
これまでにお前にすり寄ろうとした女をどれだけ取り除いてきたか……お前は気付いていないだろう。我は直接関わってはいない。偶然が三つほど重なっただけだ。人間は大抵、自ら壊れるようになっている。
眼の前を黒い蛇が横切っただけ。
床に散った鱗に足が滑っただけ。
頭の打ちどころが悪かっただけ。
背中を押してはいない。自ら転んだのだ。
お前は我が見惚れただけの高潔たる存在だ。その高潔を我が護ってやりたい。嫉妬深いか、そうだ、嫉妬こそが甘い味の毒になる。
ほんの少しだけ人の姿に、お前が好いた〝瑠璃子〟の身体と貌になろう。脚は太い一本の蛇だがな。
――ばけものか。
その蛇女に仮初の姿であれ夢中になり貪るように抱いてきたのはお前ではないか。
〝瑠璃子〟が『子供はおらんでええから一緒に一生を終えたいわ』などと言ったなぁ……本心だぞ。
お前が無意識に抱き締めて来た。
今、眼を醒ませば面白い事になるであろうな……愛しき伴侶の姿は半妖の蛇のばけものであるからな。
「瑠璃子、すきだよ……」
お前がはっきりと寝言を口にした。ああ、可愛い。我は少しだけ締付けを緩めた。これでいい、夢の中でこの形を覚えるだけでいいのだから。
瑠璃子の顔で分かれた舌先をお前の唇に触れさせた。
愛している……地獄に堕ちる迄、一緒だ。
◇◇◇
ウチが目玉焼きと焼きウインナーと味噌汁を作っている内に、彼が庭から朝摘みのラズベリーを採って来た。籠に赤黒い実が光っている。
「わあ、美味しそうやねえ」
「うん、洗ってから食べよう」
彼が水道で洗って水を切り、ラズベリーをザルにあげてテーブルへ運ぶ。
席に着き朝食に手を付ける。味噌汁はいつもの通り、目玉焼きは彼の好みの半熟。食べ終えて、ウチは彼との間に置かれたザルの中のラズベリーを一粒手に取ってにやにやと笑う。
「なあ、ラズベリーの花言葉知ってる?」
「いや、知らないな……何」
「〝愛情〟」
「僕は……蛇じゃなくてキミに護られているのかな」
「もう、いややわー!」
(――もう一つの花言葉は〝深い後悔〟やけどな)
実を口に含みゆっくりと噛んだ。毒ではない甘酸っぱい味が弾けて広がっていった。
◇◇◇
食後の台所、妻はご機嫌そうに鼻歌を唄い、夫は残ったラズベリーを冷蔵庫に入れようとする。そこに彼の眼にザルの上に光るものが見えた。妻は食器を洗っている。摘むとそれは蛇の鱗だった。かなり大きいものだ。
彼は、まだ庭に棲みついているのか、と思ったがすぐにゴミ箱へ捨てた。
「……ウチはそんなにえげつなくはないで。まだ、そんなに、な」
水道の流れる音に紛れた妻の小さな呟きに彼は気付かずに勝手口から出て行く。
妻が蛇口を閉めると張り付いていた鱗がシンクに落ちて、勢いを失くしつつある水流に乗って排水口の底へと吸い込まれるように落ちていった。
(初稿:2025/08/15)
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