Magic Mountain Way

水の入った長靴

「パパ、なーちゃん来てるよ」

「んー、野良猫か」

「ううん、なーちゃん、ちゃぷ、ちゃぷって」

昼食を食べ終えてガラス戸の外の庭を息子は見ている。日曜日、今日は息子を連れて近所の遊園地兼動物園に行こうとしていたが、天気は生憎の荒天となっていた。

鈍色の空からは大粒の雨が降りしきり地面に打ち付け大きな水溜りを作っていた。

「最近の遊園地ってお弁当持込禁止なの前日に解って慌てたけど、これじゃ意味なかったわね」

妻がテーブルを拭きながらガラス戸の外を見て苦笑いをする。今頃、アトラクションも動いてはおらず、動物たちも雨宿りで小屋から出ては来ないだろう。

「なーちゃん、あそぼ」

「駄目よ、変に餌をあげて野良猫に懐かれちゃあ」

「なーちゃんはネコじゃないよ、ああ、行っちゃった。ちゃぷ、ちゃぷ、ばいばい」

息子は空想の世界の友達と雨の中で遊んでいる。全く平和なものだ。来週は彼の機嫌取りの為に晴れてくれたらいいものだが。

◇◇◇

翌週の日曜日。

空は鈍色だが隙間から太陽が顔を覗かせている。一応、折り畳みの傘やカッパを用意して遊園地に向かう。

「大人二人にお子様一人ですね、楽しんできてね!」

「行ってきまーす、ばいばい!」

息子が係員のお姉さんに大きく手を振る。

絶叫系のアトラクションはまだ乗る事が出来ないが、コーヒーカップやメリーゴーラウンドを楽しんだ。

続いて道続きになっている動物園へ向かう。ここは私の幼い頃から学校の遠足でも訪れる定番スポットだ。息子はゾウやキリンに夢中になり、妙な顔のバクに笑い、寝ているヒョウに「起きて」と語りかけていた。

昼食は施設の中心の食堂、テラス席でホットドッグとコーラを食べる。

「楽しかったか?」

「うん、パパ、ママ、ありがと!」

「あら……ちょっと降ってきたみたい」

妻の言葉通り空が泣き出して雨が落ちて来た。

「早いけど帰ろうか」

「そうね、もう帰るけど良い?」

「うん……いいよ」

雨が徐々に本降りになってきた。食堂の屋根の下で妻が息子にカッパを着せている。すると彼がある一方を指をさした。

「なーちゃんだ」

「えっ」

その先には壁に掛かっていた掃除用の長靴があった。

「あれは長靴でしょ」

「まだちがうよ、ちゃぷ、ちゃぷってなったらなーちゃん」

「……?」

◇◇◇

帰宅して少し濡れたので息子と一緒に風呂に入り上がってリビングでくつろいでいる時に問い掛ける。息子はクレヨンで画用紙に絵を描いている。

「なあ、なーちゃんって何だ? 長靴か?」

「ちょっとちがうよ。ちゃぷ、ちゃぷが、なーちゃん」

「ちゃぷちゃぷねえ……」

「雨がざーざーの日に来るの、ちゃぷ、ちゃぷ」

「……家にか?」

「来るよ、入れてほしいのかな。にわをうろうろしてる」

「……」

「ご飯よー」

「あっ、ごはん、パパ食べよ」

「うん」

夕食を済ませ私は独りで食卓でウイスキーを傾けていた。窓の外はひどい雨が降っている。

息子の空想癖にしては妙に具体性がある。

その時、雨音の中に明らかに溜まった水の入った何かを振るような音が響いた。

それはまさしく、息子の言うような『ちゃぷ、ちゃぷ』であった。

それがガラス戸の外で歩き回るように響いている。

(何だ……)

私はそっと近付いて様子を見る。

雨に濡れた庭先に使っていない長靴が歩いている。

誰も履いてはいない。

長靴だけが動いて歩いているのだ。

そこから、ちゃぷ、ちゃぷ、と水音が響く。

思わず床にへたり込んだ。その影に長靴が気付いたのか、一瞬動きが止まった。長靴から何かが出てきた。

水の塊の素足だ。

それは血のように赤い。

それが一気に勢いをつけてガラス戸に衝突した。

私は気を失った。

◇◇◇

「あなた? どうしたの……キャーッ!!」

朝、妻の悲鳴で眼が覚めた。頭が随分と痛む。

「あ痛たたた、どした、の……」

私の傍らで妻が腰を抜かしていた。私もそのまま卒倒しそうだった。

ガラス戸の外側にはある程度の大きさの動物が衝突したような血飛沫が付着していた。

息子が寝室から来てそれを見る。

「なーちゃん、死んじゃった、ばいばい……」

空は好天で昨日の雨が嘘のようだった。

(初稿:2026/07/04)

back