Magic Mountain Way

ブロッケンが呼んでいる

「親父は生前、山登りが好きでしょっちゅう出掛けていったんだ」

取材対象の大物俳優は浅黒い肌の中の髭を撫でてからお猪口を傾けた。私は駆け出しの芸能記者で、稀代のプレイボーイで数々の浮名を流した彼の回顧録の独占出版の契約を取ってこいとデスクに尻を叩かれていた。

しかし、彼は金魚の糞のようについて回る私を毛嫌いせず気に入り毎夜高級クラブやショーパブ、バーへと連れ回した。お蔭で毎朝グロッキーだった。

今夜は「面白い話をしてやる」と下町にある彼の行きつけの隠れ家のような小料理屋へ入ってその言葉だった。カウンターだけの席に客は私たちだけで女将も、ごゆっくり、と空気のように佇んでいる。

彼は注文した鰤大根を箸で細かくして食べて話を続ける。私は聞き漏らすまいと手帳にメモを取る。

「俺に言わせりゃあ、つまらん男だったよ。愚直なサラリーマンで酒も煙草ものまず、博打もせず、オンナも見合い相手のお袋ただ一人……俺はその反動じゃないぞ」

人懐っこい愛嬌のある笑みを浮かべる彼を見て、この人たらしっぷりに数々の女優は転がっていったのかな、と少々失礼な事を思いながらも話に聞き入る。

「そんな親父の唯一の趣味が山登りさ。何でも大学時代の友人三人で登山サークルを組んで色んな山を登っていった。当時は登山ブームだったか……詳しい事は知らんが、多分そうだろう。そんなある日の事だった。土曜日に野球部の練習を終えて帰ったら『日曜の夜に帰る』と泊まりで登りに行った筈の親父が家に居るんだ。妙に蒼褪めた顔でしきりに震えている。こりゃあ何かあったなと思ったが事情を訊けるような雰囲気じゃなかった」

私はメモを取る手が止まった。これは、芸能記事にはならない、と直感した。若手でも解る、事件か事故だ。

事故ですか、と問うと、事故っちゃ事故かな、と。

「その日を境に親父が山登りを辞めた。いや、正確に言えば〝高い山〟だ。近場の低い山でハイキングして日帰りで帰るようになった。定年後に身体を壊して病院でポツリポツリとあの日の事を話し出してから俺はようやく知ったよ」

私に酒をすすめる。私は素直に呑んだ。

「〝ブロッケンの怪物〟って知ってるかい」

いえ、と首を振ると彼は苦笑いした。

「〝妖怪〟とか〝現象〟とも言うがな、山に霧がかかってそこに太陽が当たると自分の影が映る光の悪戯さ。そんなに珍しい事じゃあない」

私は自身の浅学に恥じながらも彼は静かに語っていく。

「登山仲間と一緒に登った最後の日にそのブロッケンが現れた。山頂から見える霧に映る光の輪の中に人の影。親父は『やあ、御来光だ』なんて呑気に自分の影に手を振ったそうだ。当然ながら影も同じ動きさ。すると、横に居る仲間が何やら様子がおかしい。ブツブツと何かを呟きながらその影を見つめている……そうしたら」

――そうしたら。

「『呼んでいる、いかなくちゃ、いかなくちゃ、いかなくちゃ、いかなくちゃ!!』、仲間はそのまま叫んで飛び降りた」

私は絶句した。

「……錯乱と思うかい? 大騒動の後、麓でもう一人の仲間は『お前の影がこっちに手招きし始めて、動きが一致しなくなった、慌てて眼を塞いだ』と親父に告げたんだと。それ以来、親父は山が怖くなったそうだ。でも、登りたいから低い山。笑うしかねえよな」

今夜の彼はそのまま話を終えた。

◇◇◇

嫌な気分にさせられて私は彼と別れ帰路につく。

今夜はそれ程、呑んでもないがあんな話は酒が入っていても素面でもごめんだ。結局、明日またデスクにどやされるかも知れない。

ふと、気が付けば街燈の下に居た。一歩、大通りから細い道に入ったところ。私はその灯りが照らす夜道に伸びる自身の影を見つめている。

黒く長い影。闇に浮かぶもう一人の私。

ブロッケン。山の怪物。何が呼んだのか。

私は自分の影を見つめながら何の気なしに手を振った。

――その影がこちらに向かって手招きしたのは錯覚だろうと思い込む事にした。

(初稿:2026/01/28)

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