Magic Mountain Way

溢れ、溺れ

私がとある中小企業でサラリーマンをやっていた時の先輩社員から聞いた話だ。

彼は社内でも根無し草で謂わば社内フリーターのように各部署で適当に仕事をしては定時に帰ってはを繰返していた。おおらかな時代が許していたのもあり、同時に社がなあなあで動いていたのもある。

しかし、そこに世界的な不景気によるリストラの風が吹き、彼もその憂き目に遭った。

最後の方は書く必要のない誰も読まない日報を埋めて日がな煙草をふかしていた。私もいつ肩を叩かれるか解らぬ泥舟から早々に抜け出して辞めようと転職活動を水面下で行っていた。

そんなある日、仕事上がりに彼が私を呼び止めた。

「説教じゃないけどな、オレみたいになったらお終いだぞ」

彼のふかす煙草の煙を吸わないように赤べこのように頷く。当時は私は喫煙者ではなかった。彼が続ける。

「オレがここでも適当にこなして今まで定職に就いてこなかったのはある出来事があったからなんだ。まあ、座れ。嫌でも聞かせてやる」

椅子を引っ張ってきて彼が私に座るように促す。内心、早く帰りたかったが座って話を聞く事にした。

「オレは南の生まれでな、海が好きだったんだ。上京しても潜りたい、海を味わいたい気持でいっぱいだった。知ってるか、海の中を。上から覗く色とは全然違うんだ、透明度の高いところは何処までも紺碧が続く……そこに海中を飛ぶように泳ぐ魚の群れ、差し込む太陽の光のカーテン、最高だよ」

珍しく彼の顔が綻んだ。少なくとも私は初めて見る表情であった。しかし、すぐに翳った。

「ダイビングの免許を取って潜水プールのあるショップに勤めた。五年、いや六年……馴染みの客も出来たよ。でも、辞めた」

彼が煙草を揉み消す。脂で黄ばんだ歯を見せて辺りを伺う。何処か怯えたような薄ら笑いを浮かべて。理由はすぐに明かされた。

「死人が出たんだ」

死人――。

急に話が生々しいものになった。私が、事故ですかと問いかけると彼は頭を振った。

「……事故だったら、良かったんだがな」

私はその言葉に得も言われぬ寒気が走った。事故ではない死人。それでは、第三者による――。

彼が私の表情に気付いたのか苦笑いをする。

「コロシじゃねえよ。でも〝ニンゲン〟じゃないな。そうだ、コーヒーおごってやるよ」

彼が立ち上がり社内のベンダーからアイスコーヒーを買って渡してきた。

「ある客……若い女性で、南国で友達と潜りたいのって言ってた人だ。実は良い仲になって付き合おうかと話も進んでいた。でも結局は要領の良い同僚が搔っ攫っていったがな。情けない話だよ」

苦笑いする彼がコーヒーを開けて飲む。話を続ける。

「その店のダイビングのプールは段階があってブロックのおもちゃみたいに一・五メートル、三メートル、八メートルと深くなっていく。外に窓があって二人体制で指導するんだ」

何となく想像は付く。私がコーヒーの蓋を開けて飲む。

「仮に三メートルで急にパニックになっても中で潜水するスタッフが落ち着いて誘導して浅いところへいきゃあ済むんだ。外から排水も出来る。でも、その日はおかしかった」

彼が煙草を取り出し火をつける。紫煙が辺りに漂う。

「その日、オレは外で監視、同僚……さっき話したヤツだよ。ソイツと彼女が潜水服を着て三メートルの所。いつも通りと思って見ていたら二人の様子がおかしい。急に暴れて藻掻いている。慌てて排水ボタンを押したよ。反応しなかった、むしろ水が増えていく、どんどん、どんどん、水が上がっていく……何度もボタンを押した、押したんだ。それでも排水はしない。あっという間に水面は天井の高さに来ていた。有り得ない! 潜水の部屋に行って外から扉を叩いたよ、何度も、何度も、何度も……やがて、静かに水が流れる音が響いていった」

私はコーヒーを持ったまま黙るしかなかった。彼が大きく溜息をついた。

「水が引いて警察と消防が来たら二人の酸素ボンベに水が入っていた、信じられないのはそれは海水だった。プールの水は真水なのに……」

コーヒーを一口、彼が飲んだ。

「それ以来、まともに生きるのが馬鹿らしくなった。真面目に働いてもどうせ死んじまう。オマエも転職ほどほどにな」

そう言って彼と別れた。

◇◇◇

後年、家族が出来て南国の海へ行き、はしゃぐ妻と孫を見ていてふと思い出した事であった。

あればかりは私も理解もしようがないし、説明のつけようがない。

ただ、いうなれば、あの話の中で彼が漏らした無自覚の嫉妬心を、海の中の黒い澱みのような邪悪が心をかき乱すように彼を通じて人の命を奪ったという事だろうか。

私にはそう納得するしかなかった。

(初稿:2026/07/01)

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