Magic Mountain Way

黄昏の空が動く時

古い屋敷の板張りの廊下をどすどすと音を立てて軋ませながら男が歩いていく。鯉の泳ぐ池の庭に面したそこに一歩下がった使用人たちが頭を下げていく。

突き当り、そこだけリフォームしてモダンな造りの扉を彼が叩く。

「こがね! 居るやろ、お父ちゃんや、開けてんか」

しばらく経って扉が開かれる。そこに居たのは長い黒髪に真っ赤な肌の顔、額に二本の角を持った着物姿の美女であった。眠たげに垂れた瞳に長い睫毛、すうっと通った高い鼻梁にぷっくらとした唇が何とも艶っぽい。

人間ではない、鬼だ。

彼女に相対するのは総大将と言わんばかりの着物姿の大男の鬼であった。こがねと呼ばれた彼女が溜息をついて返事をする。

「お父ちゃん、聞こえてますえ……また、お見合いですの」

「せや、鬼林酒造さんの跡取りやねんけどな、まあ顔は……眼ぇ瞑らなあかんけど、うっとこの家には勿体な――」

「帰って」

「え」

「帰ってちょうだい」

「そんな……」

がっくりと肩を落とす父親に対してこがねが頭を振る。

「源六に車出してぇて言うといて」

「また、ヒトの世界かいな」

「お見合いはお父ちゃんから断っといて、『鬼丸勘右衛門の娘はどうしようもない阿婆擦れです』言うて」

「はあ……」

屋敷の外は黄昏が永遠に止まる空、ここは人間界から一つも二つも捻れた場所にある妖かしの世界。

のっぺらぼうの豆腐屋の大将とろくろ首の女将、街角の烏天狗の紙芝居屋には河童の子供や猫又の子供が釘付けだ。板塀や煉瓦造りの街並みに路面電車が走り和装の妖かしが闊歩する。

道路を走る人力車を引く三つ目の青鬼の車夫の源六が振り返らず、乗っている鬼の令嬢である鬼丸こがねに声をかける。

「お嬢! あたしが言うのも何ですがね、鬼林さんは酒は旨いですがボンボンは女癖悪い言う事ですわ!」

「……知ってる。せやから断ったんよ」

「はは、旦さんより一枚上手ですわ!」

駄菓子屋の前で車を止めて休憩してサイダーを飲む二人。

「美味しい?」

「はは、お嬢と一緒やなんてもったいないもんですわ、神社には何時もの時間で?」

「余り遅いとお母ちゃんに怒られるさかい」

人力車が街外れの神社へ着き、こがねは社の後ろの空間に浮かぶ黒い穴へ入っていく。

◇◇◇

「和希くん」

「あれっ、こがねちゃん。いつ来てたの?」

「ふふっ、内緒」

人気のない神社の石段に和希は座っていたが後ろから声をかけられた。

そこには赤い色ではなく、すうっと透き通るような白い肌に額の角がない和服の〝人間の姿〟のこがねが居た。あそこからは人間の世界のこの神社の裏手に繋がっていた。勿論、見えるのも行き来出来るのも妖かしだけだ。

こがねは恋をしていた。相手の和希はフリーターでアルバイトの帰りにこの石段で缶ビールを呑んでぼんやりするのが好きだった。

「こがねちゃん、身体大丈夫?」

「病院の帰りなだけやで」

こがねは嘘をついていた。

街の方角には総合病院は確かにある。しかし、行った事はない。彼女はこの周りを歩いて黄昏から動く空をどうしても眼に焼き付けたかった。今は夏の星座が見える。市街地から少し離れた周囲は古い家屋が目立つ灯りの少ない住宅地。宵の内でも星空は見える。

こがねは初めて見た時、余りの光景に息を呑んだものだった。真っ黒な空に瞬く星。時折、飛行機が夜間灯を点滅させて滑るように飛んで消えていく。流星群の夜もあった。話にしか聞かなかった星座を指で、つい、となぞって微笑んだものだった。勿論、雨の夜もあった。神社の軒先を借りて、ほう、と溜息をついてその土っぽいにおいを味わった。

しかし、何れは結婚してここにも来られなくなる。待っているのは永遠の黄昏だ。それ迄に目一杯自由を感じていたかった。

そんな中、和希と出逢った。出逢いと言っても劇的なものではなく、ばったりと出くわして、こがねは最初は警戒してすぐに立ち去ったものだった。しかし、それは徐々に慣れていきやがて二人は恋に落ちた。

今日も並んで座り口付けを交わす。唇が離れると笑い合う。こがねが問い掛ける。

「和希くん、アルバイトどう?」

「まあ、いつも通りかな。そうだ、給料出たら御馳走するよ。お寿司、いつもそうだけど前後逢えないからさ」

「かめへんて、私の方がお姉さんなんやから、無理せんといてな」

「ありがと。ふふ、お姉さん? 余り、変わらないんじゃなかったっけ」

「ちょっと行き遅れかな」

二人が笑う。たとえそれが偽りの顔であっても、それでも幸せだった。

◇◇◇

翌週末。雪女と稲荷の女友達でカフェーでパフェを食べるこがね。

「こがねちゃん、ニンゲンと付き合ぉてるてほんまなん?」

「ウソやん!?」

そう声をかけられてパフェをよそったスプーンが口の手前でぴたりと止まる。そのまま二人を睨む。

「声が大きいわ、お銀ちゃんに紅緒ちゃん……」

不満気にスプーンに乗せたパフェをぱくり。しかしながら、雪女の銀と稲荷の紅緒はニヤニヤと冷やかす。

「なあ、ちゅーした?」

「紅ちゃん、それはベーゼとちゃう」

「二人共、みつ豆と善哉取るでほんまに……した」

「わお」

「ひゅえ」

二人がニヤニヤと笑う。こがねは平静を装っていたが心臓はばくばくと早鐘を打つように動いていた。震える声を隠しながら続ける。

「せやけど、人間も私らと変わりないと思うで」

「ふぅん、そんなもんかいな」

銀がみつ豆を食べて考える。

「ニンゲンかぁ……ウチみたいな雪女は女しか生まれへんさかい、ひいおばあやんの頃はニンゲンの男捕まえてたて。今はちゃうけどね」

「こわ、こがねちゃんはどうなん?」

紅緒が話を振る。

「何が」

「ケッコン」

「……」

三人の間に気まずい沈黙が流れた。

カフェーから出て人力車に乗りそこから神社の暗闇をこがねは歩いている。

銀と紅緒が冷やかすのも無理はない。この世界で迷い込んだり世を捨てた人間と夫婦になった者も存在はする。だが、数は多くはなくひっそりと暮らし「変わり者、偏屈」と後ろ指をさされる始末だ。

(結婚、したくない訳やない……せやけど、和希くんの人生は奪いとぉない)

こがねの胸にチクリと何かが刺さる痛みが走ったのは気の所為ではなかった。

神社に着いて和希に声をかける。

「和希くん」

「こがねちゃん。今日は珍しく遅いね……あれ、何処から?」

「堪忍な」

今日も並んで座りそっと口付けを交わす。唇を離して笑う。しかし、和希はすぐに暗い顔を見せる。

「どないしたん?」

こがねが問うと和希は彼女の肩を抱いた。

「こがねちゃん……駆落ちしよう!」

「え、ええええっ!?」

珍しくこがねが大きな声を上げる。立ち上がる和希がそっぽを向いて独白する。

「実は……親からこれ以上、ブラブラしているならお見合い結婚させて家を継がせるって……家業を継ぐ免許はある。でも、俺はこがねちゃんとは離れたくない」

「せやけど、駆落ちって……」

「駄目かな?」

振り返った和希のその澄んだ瞳がこがねには痛かった。彼はまだ若い。人生の辛酸もその勢いで何とかは出来るだろう。

しかし、自分と一緒ではどうだろうか。しかも、自分を〝人間としてのこがね〟として見ているからだ。幸せが保証されはしない茨の道だ。

俯いて唇をぎゅうっと噛んで、ようやくこがねから言葉が出た。

「……和希くん、私の正体を知ったら嫌いになると思うわ」

「正体?」

一瞬の静寂が辺りを包む。しばらく経って空の遠くに航空機が夜間飛行して空気を裂く音が聞こえるだけだった。

こがねがぽつりと呟いた。

「――人間や、ないんよ」

和希の瞳が大きく見開かれた。

「人間じゃ……」

いつしか、こがねは涙声になり後ろを振り向いていた。

「せやけど、私は正体を見せたくない。見せたら私の事、化物や思うやろ。せやから……せやから」

「……」

「短い間やったけど、ありがとう。一生忘れへんから……さよなら」

「こがねちゃん……」

ざあっ、と風が吹いて闇に溶けるようにこがねは消えた。あとに残された和希はその闇を見つめていた。

◇◇◇

古い屋敷の板張りの廊下をどすどすと音を立てて軋ませながら男が歩いていく。鯉の泳ぐ池の庭に面したそこに一歩下がった使用人たちが頭を下げていく。

突き当り、そこだけリフォームしてモダンな造りの扉を彼が叩く。

「こがね! 居るやろ、お父ちゃんや、開けてんか」

「お父ちゃん、聞こえてますえ……また、お見合いですの」

「せや、鬼塚医院さんの跡取りやねんけどな、今度は男前や! うっとこの家には勿体な――」

「受けますえ」

「え」

「喜んで……」

「ほ、ほんまか! お、お母ちゃん! 見合いの支度や、支度!」

――これでいい、これでよかったのだと、こがねは自分に言い聞かせていた。

そうして慌ただしく過ぎて、数日後。料亭の見合いの席に鬼塚医院の跡取り息子は両家の親と居た。

「いやいや、結構なお日柄で、ははは」

「いやいや、まったくですな、ははは」

廊下で待つ、めかし込んだこがねが深呼吸する。こがねそっくりの妙齢の美人の母親の鬼が背中を押す。

「ええね、こがね。粗相がないようにね」

「解ってる……失礼します」

障子の向こうから中へと声をかける。

『入ってきなさい』

こがねの父親が返事をする。こがねが中に入って頭を下げる。

「鬼丸こがねと申します。よろしくお願い致します」

彼女が顔を上げる。見合い相手のその顔を見た瞬間――。

「あ!」

「え!」

「何や大きい声出して、はしたない……」

両家の親が渋い顔をする中、二人は互いを見つめていた。

「和希くん……?」

「こがねちゃん……?」

こがねの眼の前には青い肌に額に一つの角を持つ鬼である和希こと鬼塚和希が魂消た顔をして座っていた。

◇◇◇

あとは若い者でと、料亭の庭を歩く二人。

こがねが鬼の姿の和希に唇を尖らせて不満を言う。

「せやけど、和希くんも人間やのぉて鬼や言うてくれたら良かったのに」

「いやあ、僕と同じで人間に化けてるなんて思いもよらなかったんだよ」

「ほんまに、はよぉ、言うてえな……」

「まあまあ……ははは」

和希が空笑いをして彼女を宥める。こがねがそっと彼の手を繋ぐ。

「でも、嬉しかった。どうして人間の世界に居てたん?」

「昔から人間の世界が好きだったんだよ。この空、動かない黄昏じゃない、夕陽が沈んで、夜になって、朝陽が昇って、青空や雨雲の空の世界……家を継いでもまた行きたいな」

「私もまた、連れて行ってくれる?」

「勿論!」

二人が笑う。永遠の黄昏の空が少し動いたような気がした。

(初稿:2026/04/10)

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