初夏の水平線の向こうに熱気で屈折した船みたいなものや山みたいなものが顔を覗かせている。昔はそれが自然の悪戯で、人間の眼に面白おかしく見えているだけだった。しかし、今では蜃気楼は、本当に存在する〝物体〟になった。
蜃気楼の都市――そこには昼日中でなくとも歪んだ煌めく光が輝く人類の科学と常識を超越した技術で造られた深海の民の住まう場所。異常気象、食糧危機、環境汚染、大国間戦争、人間が汚した惑星に彼らは怒り信号を発信し続け、それが限界に達して〝魚人〟が姿を現した。そして、今では――。
「おーい、何をぼんやり見てんのさ。釣竿引いてるぞ」
「いっけね、あ! あーあ……」
彼が隣から声をかけられて我に返った時には、釣竿は堤防から海中に引きずり込まれ持って行かれた後だった。遠くに見える蜃気楼にしか見えない海底から突き上げた深海都市の摩天楼を眺めて気を取られていた。
ダボシャツと短パン姿の青年の横に居た背の高い女性が大きく伸びをする。
「しょうがないねえ、龍彦。アタシが取って来る!」
「ちょ、サナ。うわっ……めっちゃはねた、びっちゃびちゃ」
言うが早い、サナは勢いよく海の中に飛び込んでいった。龍彦が顔にかかった水飛沫を拭って堤防から海面を覗き込むと深い青の海に動く速い影が二つ、小さいのから釣竿が、大きいのがサナだ。あっと言う間に追いついてざばっと飛び上がる。堤防下の波消しブロックに着地した。
タンクトップと短パン姿の襟足の長い青い髪、同じ色の青い肌に前に尖った鼻が目立ち三白眼の鋭い眼が笑っている。その歯は全てギラリと光るような鋭い牙だ、思わず魅入ってしまう美人の鮫の魚人のサナが片手を上げて龍彦に手を振る。その手にはシイラ、釣竿泥棒だった。サナが飛ぶように堤防を駆け上がって龍彦の隣に立つ。シイラから針を外し龍彦に釣竿を返して大笑いする。
「アッハッハ! 今日のおかずゲットぉ」
「サナさ、それこそ鮫みたいに泳げるんだったらわざわざ釣りをしなくても……」
「えー、人間もさあ、魚屋さんでお造り買ったりするけど釣りするじゃん、しかも食べないで釣るのもあるんだって? ざんこくー」
そう言ってサナはシイラを置いて短パンの腰の上から生えた鮫の尻尾をぷるぷると揺らす。彼女は泳ぐ時にこれで舵を取る。
「よいしょっと」
タンクトップと短パンを脱いで裸になる。水浸しの服を絞る。外側の青い肌と内側の白い肌のコントラストに頸と脇にエラ、六つの割れた腹筋、下半身は長い脚に筋肉の塊の太腿に脹脛の途中から足と鰭が一体化したものになっている。
龍彦は思わず見ようとしないようにしても視線は向けてしまっていた。それに気付いたか、サナがにやにやと笑って誘惑するように身体をくねらせる。
「あらあらぁん、龍っちゃんもオトコになったのかねー♪」
「うっせ!」
◇◇◇
陽が落ちて二人が龍彦の自宅に戻り彼の両親とシイラのお造りを食べている。居間の卓袱台を囲み父親が焼酎を呑んで母親が今日あった事をまくしたてるように喋り三人が適当に相槌をする彼らのいつもの夕食だ。
黙ってお造りをあてに焼酎を呑んでいた龍彦の父親が口を開いた。
「母さん、龍彦、それにサナちゃん……その、サナちゃんのお父さんに誘われてな、蜃気楼の、深海都市に行かんかって」
その言葉を聞いて母親がぴたりと動きを止めてふうっ、と溜息をついた。
「はぁ……いつかは来るとは思ってましたけどね。最近は陸の仕事も少ないし、お父さんの同僚さんも向こうに行ってますし」
「うん、向こうの地区、人間が住める特区で……安定した仕事はあるし、治安も良い。何より食糧危機もないし、龍彦にもメシを探して貰う必要もなくなる。ただ……」
「ただ? 何ですかね、お父さん」
父親が龍彦と隣に座るサナを見る。グラスに入った焼酎をぐい、と呑んだ。
「……サナちゃんと龍彦が結婚するのが条件だと」
「ええっ!?」
龍彦が思わず持っていた箸を落とす。サナもきょとんとした顔をしている。母親だけが何故か喜んでいるような表情だ。
「サナちゃんのお父さんが……サナちゃん本人を前だけど、お転婆娘の子供、つまり孫がみたいと。サナちゃんから好きな相手が居ると聞いているから早くこっちに婿さん寄越せ、だと」
サナがにやにやと笑い腕を組んで尻尾で龍彦の背を叩く。
「そっかー、バレちゃ仕方がないかー、アタシ龍彦の事好きだもんねー、アッハッハ!」
父親がちびりと焼酎を呑む。
「まあ、そういう事だ……龍彦、どうなんだ、その、サナちゃんとの関係は」
龍彦がサナの視線をよけるようにそっぽを向いて応える。
「……まあ、サナは嫌いじゃないよ。向こうに行けるのはむしろ嬉しいけど、いきなり結婚って、魚人と人間の子供が出来るのは知ってるけど、俺の意見とか今の生活とかはどうなるのよ。そりゃないんじゃないの?」
「だよねえ、母さんもサナちゃんと龍彦の子供の顔は見たいけど、まだおばあちゃんって呼ばれるのはねえ」
「いや、お袋。ナニを言ってるの」
そんな中でサナが立ち上がる。
「もう! 龍彦ったら照れちゃって、一緒にショーライを語りあいましょー、おいでおいで、アッハッハ!」
「わっ! サナ、やめ、やめろ、助けて!!」
龍彦がサナに背負われて外へと連れ出されていった。
◇◇◇
外は霞みがかった満月の夜だった。サナが龍彦を背に乗せて彼を溺れさせないように器用に泳いでいる。着いたのは磯の洞窟だ。ここは時間帯によって岩肌の隙間から差す光が見事で地元のカップルがデートをして愛を語らう場所だ。しかし、満潮時は入る事は出来ない、今はその時。サナと龍彦が岩場に乗る。龍彦はフロップサンダルを履き、サナは裸足だ。二人ともシャツも短パンもびしょ濡れだ。彼女が龍彦の手を取る。
「龍彦、ひひひ……」
「サナ、お前ねえ……」
「いいじゃん、アタシは龍彦好きだし、龍彦は魚人は嫌い?」
「いや、そういう過激な団体とか魚人差別する輩みたいな考えは持ってないよ。そもそも、陸でも魚人も多くなったし慣れた」
「えへへ、嬉しい」
二人して服を脱ぐ。無駄だと考えながらもなるべく乾いた岩場に置く。
「ん、絞ろうか」
サナがシャツを手に取り絞ると海水がぼたぼたと落ちた。彼女が自身の短パンを脱いで、龍彦の濡れてパンツ一丁の身体をしげしげと見る。彼が思わず両手で股間を隠す。
「……何だよ」
「いや……初対面の時は太ってるなーって思ってたけど鍛えたんだねって」
「あー、そうだよ。でも、サナには敵わねえだろ」
「ふふん、アタシは鍛えてるし陸でも速いよ、魔の弾丸のように、なんてね」
「こわ」
話がぐだぐだになっていく内に何だかおかしくなって二人して笑い合う。洞窟から見える夜空、月が雲から抜けて光が差し込んできた。闇から浮かんだ青い髪に刃物を突き付けられたようなぐらいの美しさを持ったサナの顔と鍛え上げられた裸がそこにあった。
冷たい印象を受ける青の肌に長い手足、全体的に筋肉質を超えて並みの格闘家は眼ではない太く大きい腕。龍彦には昔に教科書で見た海外の神々の彫像のような血管の浮き出た猛々しい脚、割れて固そうな腹筋とそれとは違う生唾を飲むような大きさの張りのある双丘。
見つめ合う二人が言葉を出そうとしたが、それより早くそっと顔を近付けて口付けを交わす。
「ちゅ……ちゅちゅ……」
「はふぅ、んむ……」
既にサナの瞳はとろんと蕩けている。少しだけ息が漏れる音がする。彼女たちは陸上では口で呼吸をするが昂るとエラでも空気を取り込もうとする。ざらついた舌が龍彦には少しだけ痛く感じたが贅沢なものだろう。
そのまま彼は顔を離してサナを抱き締めた。
「ふぇ? 龍彦……?」
突然の行動にサナがぽかんとしながら龍彦を見つめる。彼が顔を起こして耳元で囁いた。
「サナ、好きだ……愛してる……俺の一生をお前にあげるよ」
「!」
そのままの勢いで龍彦はキスをした。彼の頬に熱く濡れたものが伝わってきた。サナの鮫の尻尾がばんばんと揺れて彼の腰を叩く。それを龍彦がぎゅっと握る。そのまま身体を密着させたまま口付けを続けた。
「たつひこぉ……あ、あ、ぁ……すき、だいすき……うえええん……」
熱い心を渡し、熱い涙を受け取った。
◇◇◇
洞窟の岩場から生乾きのシャツと短パンを二人が履いていると、遠くに見える光に気付いた。
「あれ、ここからでも蜃気楼都市が見えるな」
「うん、昔は夜に海面に向かって光を照射してた名残だって」
「人間たちには見えなかったなあ……何れは人類も滅びるのかな」
「どうだろ。お偉さんたちは本気で陸上支配計画なんか考えているのかなあ。友好的に交流する団体もあるけど」
「ふうん……でも、文化交流の名目でサナに逢えたからな」
「うふふー、これから向こうに婿入りだぞ、婿殿♪」
「やめろ、それは言うな」
龍彦が苦笑いをしながらサナの手を取った。そろそろ、陽が昇ろうとしている。東雲、紫から赤に変わる朝と夜との境目の空だ。
「龍彦……あのね」
「んー?」
「アタシも、龍彦の事……大好きだよ」
「うん……」
「ずっと前から、初めて会った時から、一目惚れだよ」
「うん……」
「……これ」
サナが短パンのポケットから貝殻を差し出す。開けるとそこには珊瑚で出来た小さな指環があった。
「来る前に部屋から持って来たんだ。母さんから貰って、大切な人に出逢ったらって。ほら、早く受け取ってよぉ、はずい……」
「ありがとうな……」
龍彦が指環を嵌める。小さく小指にしか嵌められなかったが彼も彼女も満足だった。そして、サナにゆっくりと口付けをした。
水平線の向こうから朝陽が顔を出した。海底から突き上げた蜃気楼の深海都市の摩天楼が光を受けて輝いている。
(初稿:2022/04/10)
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