※本作品には流血描写及び残酷描写、自死を想起させる表現が含まれております。閲覧には御注意下さい。
あの夏は百年に一度と後に語られる程の熱波が各地を襲い頭の先端から足下まで溶けた蝋燭のようになりそうな酷暑だった。
私はどうしてあの場所で立ち止まってしまったのかは今では解らない。それに〝呼ばれた〟のか、それが〝聞こえた〟のか。
焼け付くような太陽光が地面を熱し地表の空気を歪ませる。そこへ遠くに見える存在しない水が陽炎のように揺らいで見える。それが逃げ水だ。
逃げ水が人間を幻惑させる。それが単なる錯覚であってもひとびとはそこに光の魔術を見てしまう。
しかし、今、私は見ている逃げ水は単なる幻ではなかった。
道の向こう、逃げ水の中に二人の人間が見えている。
一人が胸倉を掴まれて一方的に殴られている。そして、もう一方は容赦なく顔面に拳を打ち付けていく。二人の姿はぼんやりと揺らめいていた。
何という事だろうか、錯覚であって欲しかったが、紛れもない犯罪ではないか。
私が居るここは車道を挟んだ道の逆側。慌てて信号を見付け青に変わるのを待って走り出した。
しかし、次の瞬間、視線の先の二人は蒸発するように消えていった。辿り着いた先には争ったあとも血痕も残っていなかった。
蝉の声が急に聞こえ始めた。今までも鳴いていたそれが現実に引き戻す合図のように。
◇◇◇
それ以来、その道を通る度に――いや、良く晴れてひどく暑く逃げ水が発生する度に――あの二人は私に姿を見せた。
熱波から来る幻覚だろうと思った。思い込まなければ頭がおかしくなりそうだった。
そして、その二人の顔や姿、輪郭が徐々にはっきりと見えるようになって私は膝から崩れ落ちそうになった。
拳を打ち付けていたのは私で、殴られていたのは私の親友だったからだ。
親友は私の故郷で農業をしている。学生時代からの音楽仲間で、旅行にも連れ立って行き、美味い酒があれば共に酌み交わす仲だ。
彼の美人の妻とも古くからの友人で彼女も加わり海水浴に行ったこともある。
そんな親友に私があんな風に容赦なく手を上げるだなんて幻覚にしても悪質極まりないものだ。しかしながら、現在、私の立つ道路の向こうの逃げ水には許容しがたいものが存在している。
何度か幻の下へ走ったが、その都度消えていた。逃げ水には辿り着けない。
そんなある日、彼から連絡があった。
上京するので観光案内をして欲しい、と。
私は躊躇した。何よりもあの信じ難い光景が脳裏に浮かび一瞬、声が詰まってしまった。電話口の彼が疑問に思ったか問い掛ける。私は悟られぬように取り繕い快諾の返事をした。
――あれは幻だ。この暑さと疲労が見せる悪い蜃気楼だ。
自分にそう言い聞かせて深く息をついた。
◇◇◇
彼がターミナルに着いて笑顔を見せる。私も笑顔で返す。
観光地を紹介し、老舗で鰻を食べる。彼は、カミさんも連れてくれば良かったな、とこぼしていた。
私はそれを見て安堵した。何て事はない、いつもと変わらぬ彼と私がここに居る。
夜になり彼が安いところでいいと言うので居酒屋に入り話も盛り上がった。私も彼も杯が進み上機嫌になっていった。
会計を済ませ酔い覚ましに道なりに歩いている。時計を見ると既に明け方だ。呑み過ぎたなと思っていると彼が悪酔いの延長線上で私に絡み始めた。
最初は宥めていたが、絡みは悪口に、それが罵詈雑言に変わっていく。私が水でも買ってくるから落ち着けと諭すと彼はこう言った。
「お前、俺のカミさんに惚れてたんだろう」
何を馬鹿な事を、と呆れたが彼は捲し立てるようにひどい言葉で愚弄してきた。
一瞬で私の眼の前が強い光をまともに見たようになった。
気が付けば拳が焼けるように熱くぬるついている。もう一方の手で彼の胸倉を強く掴んでいた。その手に熱く濡れたものがじわりと滴ってきた。
誰かの悲鳴が遠くで響いた。ざわめきが聞こえる。サイレンが遠くから聞こえる。
朝陽がのぼると、ここはあの逃げ水の先にあった道だった。
◇◇◇
すべてを失って十数年ぶりに塀の外を歩いている。
あの年と同じような暑い、暑い、暑い夏。
あてもなく歩き回った訳ではなかった。
そこで立ち止まったのも偶然ではなかった。
道の向こうを見つめる。
逃げ水の向こうに一人の男が立っている。
こちらに向かって笑って何かを喋っている。
何を喋っているかは解らない。
ただ、それは嘲笑を含んだものである事だけは解っていた。
私はダンプカーが遠くから見えるのを待って近付くと車道へ飛び出した。クラクションが響き、間に合わないブレーキ。身体が宙に浮いた。熱いアスファルトに流れる赤を感じながら、遠退いていく意識の中で薄っすらと眼を開けると、逃げ水の向こうの男の顔が私と同じである事を確認した。
これでいい。
逃れられない逃げ水の悪夢を見ずに済むのだから、これでいい。
(初稿:2025/05/27)
© Magic Mountain Way