ホラー作家仲間と居酒屋で呑みながらネタを話している時に彼が切り出した話だった。
「僕は学生時代に古本屋でアルバイトをしていたんですよ。あの当時は、確か大台に乗ったと言っても時給六百円だったかな。今では信じられないでしょう」
ぬるくなったビールを傾けながら私が煙草を取り出し火をつける。煙を吐きながら笑う。
「娘は牛丼屋でバイトしてるけど、今は千円超えてるからなあ」
「そうそう」
私が待ち切れないように訊ねる。
「それで、その古本屋で恐怖体験を?」
彼がおつまみのポテトサラダを口にして笑う。
「慌てちゃいけませんよ、まあでも恐怖とは言いませんが不思議な体験ですね」
そう言ってビールを呷る。そして話が始められた。
「古本屋と言っても今あるようなチェーン店じゃなくて個人経営の商店街の雑居ビルの三階にあった雑多な品揃えの本屋です。国文学研究の資料から恐ろしく古い少女漫画のコミックス、何故かレジ横に紙の飛行機、ソフトグライダーみたいなものも置いてありましたね」
私の町にも雑貨屋と書店が一緒くたになったような店があったな、と彼の話を聞きながら故郷を思い返していた。
彼と眼が合う。ニヤリと笑った。
「仕入れは店主の弟、店主は他にも違う業種の店を経営しているやり手でしたね。主に弟さんと僕で店番を交代しながら、ああ、今から思えばワンオペだったな。でも、トイレはあったし、腹減った時のおやつは持って来いとか言われて。信じられないでしょう、本屋のレジで人居ない時にパン食べてたんですよ」
「バックヤードもないのか、嫌だねえ」
私が心底嫌そうな顔を見せると彼は苦笑いをしながら煙草を取り出し火をつける。輪っかの煙を器用に吹き出した。
「雨の日は開店休業でしたね、でもその日は違った」
「違った」
彼が火のついた煙草を灰皿の煙草休めに置いた。我々の間に紫煙が流れる。居酒屋の喧騒も妙に静かに聞こえる。
「三階に店があると言ったでしょう、階段を上るお客さんの足音が聞こえて声をかけるんですが、じゃぐっ、じゃぐっ、じゃぐっ、とまるで水の入った長靴を履いた足で上って来るような音がした。うわあ、嫌な客が来たなあと思っていると、じゃぐっ、と階段を上り切ったところで足音は止まったんです。そこを見ても誰も居ない」
「……オバケか」
「どう思います?」
私に問いかける。
「でも、まだ続きがあるだろ?」
「当然ですよ」
彼が煙草を取って少し吸う。口の端から煙を吐いて。
「どうなってるんだと思っていたら、店の中で、じゃぐっ、じゃぐっ、と足音がし始めたんです。まるで何かを探すように。思わずレジから離れて足音を避けて逃げようとしたら……」
彼が静かに呟いた。
「『スイマセン、コレクダサイ』」
私は少々、肩透かしを喰らった。何とも呑気な一言だったからだ。しかし、彼は続ける。
「レジの前に大時代な黒い外套を着た帽子を被った店の低い天井を突くような大男が立っていたんです。明らかに人間じゃない、何故かって影なんです。影、黒い影が人間の形をしている。顔の辺りに、ぼおっ、と二つの眼だけが光っている」
「オバケか……」
「影男が何かを持っている。ソフトグライダーでした。僕が怯えながらレジに向かって会計しました。頼むから早く帰ってくれと。そしたら影男は札入れからお金を取り出した。『アリガトウ。ツリハ、イイ』とね」
グラスに残ったビールを彼が呷る。
「手の切れるようなピン札の五百円札でした。でも、僕ら世代が馴染みのある新しい方じゃない、古い方の五百円札。終戦から五年か六年で刷られた方です」
短くなった煙草を銜えて最後の煙を彼が吸った。
「アルバイトはすぐに辞めました。見て下さい」
懐を探って長財布を取り出してラミネート加工したものを私に見せた。
「レジには金額が合うようにしました、悪い事だと十分理解しています……でも、これだけは手放せなかった」
そこにあったのはピン札の旧五百円札だった。
◇◇◇
彼と別れて不思議な気分のまま夜道を歩いている。
あの影男の話と五百円札を見せられると彼が嘘を言っているようにも思えない。
「影男、か」
道の向こうに黒い影と自販機が見えた。何度か札が返っている。おそらく新札が使えない自販機だろう。お人好しだとは思うが近付いて声をかける。
「代わりに買いましょうか、ボタンを押して下さい」
商品のボタンが光り、私が自販機のパネルから電子マネーで決済する。出てきたペットボトルのサイダーを渡した手は影のように真っ黒だった。
『アリガトウ。ツリハ、イイ』
もう一方の手から先程見たピン札の旧五百円札が手渡された。呆然とする私を尻目に影は夜の闇へと消えていった。
(初稿:2026/07/16)
© Magic Mountain Way