※本作品には生贄としての動物の殺傷、流血描写及び残酷描写、自死を想起させる表現が含まれております。閲覧には御注意下さい。
とある地方には神が祀られていた。
それは山から落ちて単なる偶然で人の形に削られた石であった。原始のひとびとは石を神に見立て雨を求めた。すると、地面は天からの恵みに濡れ咽喉を潤す程になった。それはまったくの偶然であったが、人間の念というものが石に僅かな軋みを発生させた。
その後、石は恭しく祀られる事となった。洞穴に据えられて祭壇が作られた。しかし、年月を経ると雨は求められても降らなくなった。
ある年、石の前に仔山羊が連れて来られた。石は何も動かない。洞穴に仔山羊の鳴き声が響く中でその首に刀が下ろされた。飛び散った血飛沫、断たれた首から流れる血を人間が指に取り石に塗り付けた。それは〝眼〟であった。その瞬間、初めて石に〝力〟が生まれた。
――雨を降らせてやろう。
気紛れであったがひとびとは歓喜した。血の味を覚えた石が存在する事も知らずに。
時は流れ、年に一度は儀式を行い血の供物を味わい、それはじわりじわりと〝己〟を増長させていった。奪われた生命はどす黒くて美味いものだ。
石は思う――血であれば、この勝手に祀ってきている者どもの方が、美味いのだろうなぁ――と。
石は儀式を司る番に眼を付けた。若く見目麗しい巫女と神職だ。ある年は大蛇が供えられた。家畜小屋を荒らした破落戸という念が伝わった。本来であれば山羊や鶏だったがこれで堪忍してくれるかとも。しかし、石にとっては最早どうでもよかった。血、血、血だ。
石の前に置かれた大蛇の首が斬られる。その瞬間、石は首から散った僅か一滴の血が頬にかかった巫女の身体を乗っ取った。
そこからは地獄絵図であった。乗っ取った巫女を使い刀を奪い儀式に集ったひとびとを屠り、最期は石を抱いて巫女は腹を切り開いた。
――これで石と女が繋がった。いや、この顔に血がはねた蛇も、か。
血を浴びた石だったもの――巫女と蛇の身体を持った禍は嗤う。眼の前で呆然とする手を出さずにいた神職を見つめながら……。
◇◇◇
男が町に辿り着いたのは夜半であった。ちょっとした旅行のつもりであったが列車は遅れ目当ての寺社も拝観時間を過ぎていた。宿の女将に詫びを入れて一眠り。翌朝、古刹を巡り山から外れた道にある朽ちかけた小さな石碑が気になった。
「〝蛇石〟……? 何だろう、〝へびいし〟かな」
「〝じゃせき〟と言いましてね」
男が後ろから声をかけられ一瞬驚く。そこには角樽の酒を持った神職の格好の男性が立っていた。
「やあ、すみません。旅の方で」
「ええ、カメラが趣味であらかた回ったんですがこの蛇石は聞かなかったな……」
「足場の悪い洞穴にありますのでね」
「珍しいものですか?」
「人の形の石に蛇の模様が浮かび上がっているんですよ」
「浮かび上がる……彫られているんじゃあなくてですか」
「ええ」
男が神職の顔を見る。何処にでも居そうな毒にも薬にもならない痩せぎすの中年男性だ。騙そうという素振りも動機も見当たらない。
「良ければ、ご案内願いますか」
「宜しいですよ」
神職は笑い山道を振返り進む。その片眼が前後にぐるりと回転し白眼が木々の影を落としたのを男は気付く様子もなかった。
道はなだらかだったが、洞穴は解り難いところにあって地元に住む人々も忘れ去っているだろうというものであった。入口に蝋燭があって神職が火をつける。燭台に移し男に渡す。彼は素直に受け取った。
洞穴は薄ら寒く湿度が高い、男は何処からか水が湧いているのかと思ったが神職はずんずんと進んでいくので黙ってついていくしかなかった。やがて、ぼんやりと明るい光が見えた。広くなった平たい場所に古い時代の祭壇と松明が煌々と燃やされている。中央に人の背丈程の石。確かに頭の大きさの出っ張った頂点、人程の肩の幅、乳房のような出っ張り、手の位置の溝、確かに人に見える。おかしいのは手の溝が両に二つありそれでは四本腕となり、聞いた〝蛇の模様〟は血か塗料で塗ったような、どす黒いものである事だ。
神職が角樽を祭壇に置く。炎が揺れるのを見て男が問いかける。
「風が来ているんですね」
「エエ、オカゲデ、ホノオハ、モエマス」
「ん……?」
急に神職の言葉が片言に聞こえた。男が前を向いていた神職の後頭部を見つめていると彼の首がぐるりと真後ろに回って絡繰人形のように腕が振り回された。
「なっ、ええ、え!?」
男が驚き固い岩場に尻もちをついた。神職の腕が伸び、爪の先で男の首を掠め血を滲ませる。彼はそれを感じ取ると笑う。両の眼玉がぐるぐると回る。
「ワガヌシ、ワガヌシ、コトシノ〝ニエ〟、ワガヌシ」
「ひっ」
あまりの信じられない出来事に男は身動ぎ一つ取れず呆然とするしかなかった。神職――だったものが石の顔の位置に血で眼を入れる。一瞬の静寂、洞穴の奥から吹き込んだ風の音が全てを支配する。
『よかろう、もう眠れ』
低い女性の声がした。神職だったものは一瞬で服を着た骸骨と化して祭壇の横に崩れ落ちた。
「た、たすけ」
男が何とか立ち上がろうとするも腰が抜けてしまっていて動けない。その間にも石はみしみしと音を立てて動いていく。やがて、石の形が変わり始めた。今の男には何故そうなったか到底判別もつく筈もなかったが、無機質は形を女性の裸の上半身に変えていった。それは青い肌の異形の美女であった。松明に炎を照り返す髪は黒々と艶やかで、その眼は鮮血のように紅い縦の瞳孔、恐ろしい事に腕は四本あり神々しさよりは禍々しさを醸し出していた。問題はその腹から下であった。下半身は青い鱗がびっしりと覆った一本の太く長い大蛇のものへと変化していたのだった。
蛇石――だったもの、蛇女がにやりと笑う。
『ほう、此度は〝おのこ〟か。ここ十年は〝おなご〟が続いていたからな』
「なっ、ひ、ば、ばけ」
叫ぼうとする声も途中で消え失せる恐怖に男は襲われた。
音がする。何かが地面を擦る音だ。男の眼の前には二つの紅い眼を歪ませる蛇女と揺れる炎。ざりっ、ざりっ、とそれは鼓膜に響く不快な音。地面に手をついた男の肌に固さを持たない冷たさが触れた時にそれを悟った。蛇の身体だ、と。
一気に蛇女の長い下半身が男に巻き付き絞め上げていく。空気も自由に出す事も入れる事も困難になり藻掻くも無駄だった。蛇女の上半身がゆらりと近付いていく。それは宙を浮くように、ゆらりと。にたにたとおかしそうな表情で男に問いかける。
『苦しいか。儂の言う通りにすれば呼吸は解き放ってやろう』
「……!」
男が頷くと締め付けは緩まった。しかし、身体の自由はきかない。蛇女が男の顔の前に自身の顔を寄せる。
『ふは、はははは……』
不気味に笑うその顔は口が端まで裂け長い舌が出て牙がいやに目立つ蛇の化物のそれであった。そして、ゆっくりと蛇女が男の唇を自分のもので塞ぐ。あまりの事に困惑するしかない男だったが細く長い蛇の舌が口内を蹂躙するように蠢き血生臭い味がする唾液を咽喉奥へと流し込まれると生気を抜かれたかのように表情を彼は弛緩させた。それがようやく終わる。
『どうだ、呼吸は楽になったろう』
「はい、はい……」
蛇女が四つの手で男の顔に触れる。男の眼にはそれが映っている筈だが既に反応はない。微かに息があるだけだ。口付けでもするか、と思いきや蛇女は口を大きく開き端まで裂けたそれの暗い奥を見せた。
◇◇◇
『ふふふ、ああ、うまかった』
汚いげっぷをして蛇女は腹を摩って笑っていた。
『しかし……喰うのであれば、やはりおなごだな。あはははは……』
ずるずると蛇の身体を擦って祭壇に戻ると角樽から酒を割れ椀に注ぐと呷った。蛇女の笑い声が響いていたが、やがて風が吹きそれが止むと、蛇女の位置には石があり、まるで最初から誰も居なかったように静寂だけが支配した。
◇◇◇
「〝蛇石〟……何だろう、パンフレットに書いてなかったな」
「〝じゃせき〟と言いましてね」
「吃驚した。関係者の方? 知られざるものですかね」
「足場の悪い洞穴にありますのでね」
「へえ、ついでだし見ておこうかな」
宜しいですよ」
今年も石は動く――血の味を求めて。
(初稿:2025/06/09)
© Magic Mountain Way