我が家は土間の廊下で各部屋が繋がっている。そこから下駄履きやサンダルを使い行き来する造りとなっている。建てられたのは百五十年ぐらい前だったが、私が結婚するのを機にリフォームをした。しかし、土間の片隅のまだ湧く井戸や、洗濯機を置くのにあった方が良いと当時存命中の父母が頑固になり土間を残したのだった。
はっきり言って夏は熱せられた空気が籠り暑く、冬は何のあたたかみのない足下から冷えて寒いので、その後生まれた娘からは不満の声しか聞かなかった。
年月が経ち無口な父も、口喧しかった母も亡くなり、娘も嫁ぎ、いつの間にか古ぼけた家に居る私と妻はすっかり老いてしまった。
既に肌の重なりはなくなっているが仲は良い。季節の花々を愛でに出かけたり、寺社仏閣を巡ったりしている。妻は少女のようにコロコロと笑いながら遊びに来た孫と一緒に流行りのアニメを観ているぐらいに感性は若い。私はリタイア後のボケ防止としてマラソン大会に参加したり市民講座の尺八教室に通うようになった。退職金と年金で細々と暮らしている。
そんなある日の夕方の事だ。
「稔さぁん」
リビングのソファで夕刊を広げていると妻の声が響いた。
「早く来てえ」
大声で何だ、と夕刊を机に置いて土間を通り彼女の下へ行く。
井戸のある倉庫だ。かつては手押しのポンプで野菜を洗っていたが、今は脇に設置した電動のポンプで庭の水用に引いたり災害時の非常用として置いているが使った事はない。雑多に漬物を漬けていた時の樽や自転車の空気入れが置いている。井戸は現在、鉄蓋で覆ってある。
妻が私を確認すると震えてしがみ付いた。
「どうした」
「ツバメが、死んでる……」
「は」
私の愛しのおばあさんは何を言っているのか。妻が私をひっぱって井戸の端、壁の隙間を指差す。
確かに何か黒いものが転がっている。天井の蛍光灯の灯りでは少々、影になっている。
私は妻の腕を解き、ポケットからスマートフォンを取り出してライトで照らす。そこには仰向けの何かの骸があった。
「ツバメだ……」
「ね、ツバメでしょう」
ちょうど、隙間に黒い菱形の小さい生物の死骸が仰向けに転がっていた。身体には羽毛のようなもの、顔にあたる部分に橙色の嘴らしきもの。遠目だがこれは〝巣立って間もないツバメ〟だろう。
我が家にツバメが巣を作った事はない。季節になれば駅前の本屋の軒先に巣を作り、ぴいぴいと雛が鳴いている。糞をするので書店員は下に紙箱のトイレを置いて注意書きが目立つようになっている。
――ツバメがこんな家の中に入って来るだろうか。
私は疑問に思いながらもスマートフォンで死骸の写真を撮った。
「稔さん! 撮ってる場合!?」
「解ってるよ。箒を取ってきなさい」
「んもう」
妻が長い柄の箒を取ってきて、私がそれで死骸を引っ張り出した。
「きゃっ」
「おっ」
何て事はない、灯りの下へ飛び出したのはからからに乾いた大きめの蛾のミイラであった。暗がりと、妻の言った〝死んだツバメ〟という先入観でそう見えただけだろう。遠目には嘴にも見える蛾の口や裏側の黒い色が見せた単なる眼の錯覚だった。
「なあんだ、蛾じゃないか」
「はあ、吃驚したわ」
「騒がせるんじゃないよ」
「はあい」
私は蛾の死骸を始末してリビングへ戻った。広げたままの夕刊を直すとちょうど見事な写真記事が一面に載っていた。読んだ筈なのに気にも留めなかった。
「ツバメ……」
かつての古代の都の跡の広い草原。子育てを終えたツバメがねぐらにして夕方に戻って来る黄昏時。薄紫の空に無数の黒のシルエットが翻りこの世のものとは思えない幻想的な光景を切り取っていた一枚だ。
今年は夏が永遠に続いているような感覚がある酷暑だが、動物は季節通りに動いている。彼らの体内の暦で生きているのだ。
リビングと繋がったダイニングキッチンからは妻が夕飯を作っている。ふつふつと仕上がっていく味噌汁の匂い。天ぷらを揚げる油のはぜる音。炊飯器が音を立てて米を炊いた甘い香り。
「稔さん、〝はらんきょう〟をね、芝本さんから貰ったのよ」
「そうか、またお宮さんの清掃活動の時に礼を言っておくよ」
「葵ちゃんが来た時と思ったんだけどね、もう柔らかくてね、食べちゃいましょう」
「おう」
夕飯には天ぷら。今日はエビやカボチャ、オクラにちくわ。味噌汁はナスとミョウガ。昔より食べられなくなって量を減らした白米。そして、洗ったすももの〝巴旦杏〟が並んだ。妻の郷では〝はらんきょう〟と訛る。
◇◇◇
十五日、年金をおろして銀行から帰ると玄関に見知ったサイズの小さい女物の子供靴があった。来客用のサンダルはない。律儀に使っている。
リビングへ向かうと孫娘と妻が広げた流行りのカードゲームのカードの講習会をやっていた。孫娘が私に気付く。
「じーじ、おかえり。お土産はー?」
「ない。年金は葵の身代金に取られているからな。じいちゃんは余計なものは買えない」
「ちぇー」
「ほら、葵ちゃん。ばーばがモンブラン買ってきたから持ってきてあげるわ」
「やったー!」
妻が冷蔵庫へ向かう。まったくもって現金な孫で自分の孫でなければ張っ倒しているところだが、我慢だ。
私の娘、つまりこの子の母親から「年金支給日におじいちゃんとおばあちゃんからお小遣いを貰ってらっしゃい」と言われてるのだろう。
テーブルに広げられている孫娘のハマっているカードゲームを覗くとギョッとするものがあった。
「このカード、何だ」
「ああ、〝眠りのアンデッド〟だよ。手札に出した時だと攻撃も魔法も出来ないけど、三ターン後に蓄積したダメージ分しっぺ返しを与えられるんだ。〝蘇生の宝珠〟がなきゃダメだけどね」
「そうか」
私にはこのカードのキャラクターが先日の井戸の〝ツバメの骸〟に見えて仕方なかった。カードはどちらかと言えば黒い布を巻いたミイラの怪物だが、一瞬ではあの〝ツバメ〟のように見えた。
その晩、日課の夜の戸締まりで私は懐中電灯片手に土間を歩き電気を一箇所ずつ確認し消している。
井戸のある倉庫を開けて中を照らす。すると、一瞬、影が横切った。
――蛾、いや、速い。
壁の上の棚に気配を感じ灯りを向けると、光る、二つの、眼――。
見間違いがなければ、鳥獣の眼であった。それはすぐに闇に溶けるように消えた。
◇◇◇
週末の昼、駅前の商店街でビラを配っている知り合いにあった。眼が合うとこちらに向かい頭を下げてきた。
「小原さん、どうも」
「芝本さん、先日は巴旦杏をどうも」
「いやいや、ようさん作ってますさかい」
「それより、それは?」
「ああ、マンション建設反対に署名して貰おと思いまして色々と」
「私は景観は端から諦めているけどね」
「そんな殺生な……まあ、また日曜に集会所で」
「……マンションにもツバメは来るかな」
「?」
彼と別れて書店へ行く。分厚い蛾の図鑑を買ってきて家まで持って帰った。当然というか背中の羽の模様がメインだ。私は何をしているのだろう。
妻が買い物から帰ってきた。図鑑とにらめっこをしている私を見て溜息をついた。
「稔さん、最近変ね」
「何が」
「虫の図鑑なんて、昆虫採集でも始めるの」
「いいだろう、勉強になる」
本音を隠して図鑑のページを捲る。老眼には辛いが丹念に舐めるように蛾のイラストを見ていく。
ツバメエダシャク――翅は白く、ツバメの尾のような突起がある。
スズメガ――腹がずんぐりとしている。翅は茶色い。
ヤママユ――大きさは鳥程度だが、まさしく〝蛾〟だ。
あの骸は本当に蛾か、それとも――。
その晩、夢を見た。
少年時代に飼っていた犬の夢だ。名前はゴン。柴のオスで人懐っこくて可愛がったものだ。そんなゴンがあの井戸に落ちた。きゃいんきゃいんと哀しげに鳴いている。こんな事はなかった。ゴンは庭で外に繋がれた犬小屋で飼っていた。夢だ、夢なんだ、身体が動いてくれない。父の声がする。
『迎えに来るさ』
「何が」
『海を渡って』
「だから何が」
私の声は声変わり前の少年のものとも今の年寄りのものとも判別の付かない、ごうごうとした嵐の時の風のようになった。鳥の声が聞こえる。ぴいぴいと鳴く、雛鳥の声が。身体が動く。私は井戸を覗く。無数の鳥の光る眼、飛び立っていくツバメの群れ。揺れる水面。
ゴンの死骸は、ない。
◇◇◇
翌朝、私は妻を呼んで井戸の鉄蓋を一緒にどかそうとした。妻は欠伸をしながらも呆れ返っていた。
「稔さん、本当にどうかしちゃったの」
「何でもないさ、ちょっとした確認だ」
「んもう」
重い鉄蓋をずらしている時にふと、自身の手が気になった。こんなにも皺に覆われて骨張って血管が浮き出て老けていたのか。老いだ。
若き日に妻と手を繋いだ時に汗ばんだ手。
妻を抱いた後にゆっくりと頭を撫でた手。
膨らんだ妻の胎を摩り温もりを感じた手。
産まれた娘を抱き上げ重みに感動した手。
運動会で転んで泣いた娘を慰め撫でた手。
娘の結婚式で泣いてしまい顔を覆った手。
孫と動物園に行き餌やりを一緒にした手。
今、私は何をしているのだろう――このすっかり老人になった手で。
口を開けた井戸の蓋の隙間から中を懐中電灯で照らす。暗闇に聞こえたのは水音。深いところに水が揺れているだけだった。
夕方、コンビニに行き大昔に辞めた煙草とライターを買って来た。妻は「一箱だけですからね」と言ってむくれた顔を見せた。
庭先で喫うと思いっきり咽せた。久々の刺激のある煙はこんなにも熱く、こんなにも臭いものだったのか。しかしながら、徐々に思い出して慣れていった。
向こうの道路の電線に止まる鳥の影が見えた。ツバメだ。
私は煙草を咥えたままスマートフォンを取り出し一枚撮った。ふと、先日撮った〝蛾〟の死骸の写真を見ようと探したが何処にもなかった。宙に消えていく煙と共にそういった好奇心もなくなっていく。煙草を指で挟み口から離して煙を吐く。
「お前は何処へ行く」
そう呟くと電線のツバメは飛び去っていった。その姿を見送りながら考えかけた思いも、落ちた灰と共に消えた。
(初稿:2025/12/05)
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