私は仕事で異国の街に滞在している。
天を突く摩天楼からハイウェイを排ガスを吐いて進む色褪せた車の群れ。晩冬の夕陽が早くに落ちると街の顔は変わる。陽射しの下では見えなかった薄汚い染みのような黒い人々の影。
銃声――遠くにサイレンも聞こえない。
トランク一杯に詰めた夢の留具が弾けて落ちて戻せなくなり、それを踏み躙る現実という冷たい都会に破れた者が道に寝転び、ぼろに包まって未だ遠い春を待ち侘び、ただただ震えて待つだけだ。
私はホテルと仕事先の往復だ。
母国でも変わりのない色のつかない灰色の日常をここでも繰返している。違うのは脂塗れで濃いだけの味付けで備え付けの調味料頼りの不味い食事と、命が紙屑よりも軽いどうしようもない治安と、道に目立つホームレスの数だ。彼らの中で何人が冬を越せるか、私が気にかけても仕方がない事だ。
同僚からは、夜は出歩かないように、と念を押されている。何も興味本位で危険の巣窟へ足を運ぶ程、愚かではない。
ただ、私の唯一のストレス発散方法である喫煙の為の煙草が夜中に切れてしまった。空港から持ち込める数は制限されていたが、それだけ私の苛立ちは溜まっていたという事だろうか。この国に、この仕事に、この街に、そして私自身に。
母国でも健康増進の名目でスモーカーの肩身は年々狭くなっている。私とて歩き煙草や禁煙の場所でふかす阿呆ではない。少なくなっている喫煙所を誘蛾灯に飛んでいく羽虫のように向かう節度は守っている。
だが、残り香だけでも惜しいと感じる美味い料理を食べた後に、熱い珈琲と共に一服出来ればどれだけ幸福感を得られるかを昔に知ってしまっている。それ故のジレンマも抱えている。
この国のホテルも外に設置された鶏小屋のような喫煙所しかない。フロントへ行き、煙草を買える売店はないかと問うと、鼻で嗤われた。
お客様、三ブロック先の角に二十四時間のドラッグストアがございますので身分証をお忘れなく、だった。
パスポートと最低限の紙幣と小銭を持ってホテルを出る。耳を劈くような風と酔いどれの叫び、急ごう。
街燈の灯り、潰された街燈、街燈の灯り、道端でゴミ箱を漁るホームレスを早足ですり抜ける。何かに見られているような感覚があるとすれば、それは私が異国人というだけではない。不穏という牙をむいた街に見られている錯覚だ。
三ブロック先。角に街燈、ちかちかと点滅している。そこを曲がろうとした時だった。
『旦那様、お恵みを……』
女性の〝声〟が小さく囁いて黒い影が蠢いた。私の視線は下を向いて影だけのこちらにコップを持って伸ばした腕があった。
私は一瞬、驚いたが無視を決め込んだ。情に絆されていてはきりがない。そのまま、早足で歩く。しかし、〝声〟は聞こえている。
『旦那様、お恵みを……お恵みを……』
妙に耳から離れてはくれない。端金をやったところで彼女が路上から抜け出せるものか、そう言い聞かせているとドラッグストアに辿り着いた。
出入口のシャッターは閉められており、金属の格子カウンターの向こうにぼんやりと深夜ラジオを聞いている老店主、ドラッグストアというよりは昔ながらのよろず屋が店を拡張した、そんな印象を与えた。
老店主が不機嫌に、何にする、と訊ねた。煙草の棚には普段から喫っている銘柄もあったが、今夜はニコチンもタールも一番きつい銘柄を買った。そして、再び来た道を戻る。視線の先には、ちかちかと点滅する街燈、女性の姿はない。
早足で歩いていくと〝声〟がした。
『旦那様、お恵みを……』
無視をしながら角を曲がる。まだ〝声〟は聞こえる。今にも消えそうなものだ。
『お恵みを……旦那様……』
耳を塞いで私は駆け抜けていた。
◇◇◇
数日後、ホテルの近くまで打ち合わせに来ており同僚が飯を奢ってやると言ってきた。気分転換ついでに付いていく事にした。どうせ、味は期待出来ないだろう。まだ、チェーン店のファストフードのハンバーガーの方が美味いぐらいだ。
ふと、見慣れた道に来た。
――あの夜に煙草を買いに行った道だ。
そう気付きながらも、三ブロック歩いて、同僚が角を曲がる。意を決して後ろから行くとストリート風の壁画が建物にあった。
そこには涙を流すホームレスの女性の絵と伸ばした手とコップ。そして書かれた文字。
『憐れな者に神の恵みを』
壁画の前で立ち尽くす私に同僚が呼びかける。あの夜の〝声〟は何だったのだろうか。
その先に道路に蹲り黙ってコップを差し出す薄汚れた老婆が居た。
私は同僚に追いつこうと通り過ぎたが、戻って財布から紙幣を全て取り出してそこに突っ込んだ。
これで老婆が救われるとは思わない。路上から抜け出せるだけの金でもない。ただの自己満足だ。
ただ、あの〝声〟を無視した後悔の念がそうさせた。
(初稿:2026/02/23)
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