こことは違う世界、魔術とまじないが交差して穹に龍が翔ける幻の大地。
長きに渡った戦も終わり、ひとびとは束の間の安寧に身を委ねていた。この地は人間や獣人、亜人が古来より共生してきた。時には価値観の違いから衝突もしたが、譲るべきところは譲り、深く立ち入らず干渉せずに護るべき境界線を護った。
木の葉も落ちる季節、とある田舎の町の外れに〝まじないと薬草〟と看板を掲げた店がある。目印は店先に吊るした脱皮し再生する回復の象徴である木彫りの蛇の環。それに囲まれた薬草の札だ。
今日の最後の客は薄手の服を着た猫顔の獣人の少年だ。長く伸ばした白髪を後ろに結った壮年の男性店主が布の袋を手渡す。少年が微笑む。
「アイクせんせ、いつもありがとう!」
「良いんだぞ、ジア。これでお前の母ちゃんの落葉咳も良くなる筈だ。朝と晩の食事の後に一摘まみ湯呑みに溶かして飲ませるんだぞ」
「うん!」
「まじないもかけたが、後は母ちゃんの気の持ちようだ」
「わかった!」
少年が銅貨で薬の代金を支払って手を振って家路につく。彼を見送ったアイクと呼ばれた店主が店に戻ろうとすると昔より広くなった額に濡れた感触があった。彼が振り返る。
「しまった、初雪だ……」
季節は人々が傷付いていてもそうでもなくても必ず刻んでやってくる。アイクは店の中に戻り暦を確認する。律義に暦にかけた札を一つ一つ見ていく。
『秋の収穫祭の薬草採取――済』
『獣人の子の虫下し配布――済』
『冬籠り準備――未』
彼は深く溜息をついて町へ向かう準備を始めた。
◇◇◇
翌日。
背嚢に入れた日持ちのする食料、まじないを施し腐り難くした水の瓶、念の為の薬草、ずしりとアイクの肩と背に食い込む重さは毎年の事とは言え老いが眼や脚に現れ始めた去年から堪えるものとなっている。数年前からは鬢が白くなるのと同時に額は広くなり一気に髪全体は老人のようになった。おまけに顔の皺も増えた。
いつまで続けられるかは解らない。それとも、この先に居る相手のようになるか――今は考えたくはなかった。歩くだけだ。
彼は森を歩く。山に分け入ると既に木々の枝に新雪を湛えている。冬に眠らぬ小動物が食べ物を蓄えようと動く度にその雪が揺れ落ちていた。
早めの冬の装備に身を包んでいるが荷物は急支度であった。アイクは、間に合えばいいが、と声に出さずに呟いた。声の代わりに漏れた息は白く落ちた。
森の奥、切り立った岩壁に彼は辿り着いた。岩肌は険しく垂直で何者も寄せ付ける事もない。アイクが岩壁の一部に手を翳す。長い術を唱えると壁の〝幻術〟が解けた。ぽっかりと開いた洞穴が顔を出す。アイクが持ってきたカンテラに明かりを灯し先へ進む。
やがて、奥に進むに連れて焦げ臭さが鼻に付いた。
「ハルヴァ師匠!」
「んごぉー……」
洞穴の奥、アイクが辿り着いた先は〝常光の魔術〟を入れたヒカリタケの灯りが照らす〝広間〟とも呼べる天井の高い空間があった。大きな石の机、魔石とトカゲの黒焼き、魔術の為の法具に羽ペンと書物、そこに地面に倒れたランプから漏れた油が作る小さな炎がちろちろと燃えており、脇に安楽椅子に座り御丁寧に魔女帽を被りローブに身を包んだ美女が眠っていた。
肌は死人のように青白く血の気はなく、青みがかった長い黒髪、長い睫毛に高い鼻梁、言うなれば永遠の美と契約した〝魔女〟ではあるが、その拍子抜けする鼾で台無しであった。
「師匠!」
アイクが慌てて水をかけてランプの炎からなりかけの火事を消して彼女に駆け寄り肩を揺する。
「師匠、また魔術に夢中で冬籠りし忘れて小火起こして」
「お……おぉー、儂の弟子か。アイク。そうか、もう冬かぁ、ふわぁぁ……」
その美貌には似つかぬ子供のような甲高い声で魔女――ハルヴァが大きく欠伸をする。その口には人間のものではない鋭い牙、ローブの下からはずるずると何かが引き摺って洞穴の地面を擦る音がする。アイクがその音の元を見ると溜息をついた。
「師匠……尻尾の先が焦げてます、ほら薬塗りますから」
「うぅん、熱い筈じゃわい」
「嫌ですよ黒焦げのラミアの葬儀なんて、しっかりして下さい」
アイクに促されてハルヴァがその黒と深い青の斑の模様の下半身の大蛇の身体を伸ばす。じゃりじゃりと岩肌に鱗が擦れる音がした。ハルヴァは蛇の血を持つラミアであり、不老の魔術を使う魔女であった。
魔力は強力で、戦で使う事もあれば相手を呪い殺す事も出来る。但し、現金なもので法外な報酬を積まねば相手の為には動かない信条が彼女にあった。
アイクは森の奥に捨てられていた赤子であった。気まぐれに拾ったのがハルヴァであり、彼に魔術と薬草の知恵を教え大人になる迄育てた。
彼にとっては命の恩人であり、偉大なる師匠であり、また初恋の相手であり、叶わぬ愛する女性であった。
里へと下りる年の冬籠り前だった。彼女は今とは違うふさふさのアイクの頭を撫でながらこう言った。
『情に絆された訳ではないぞ。お主はあたたかい心を持つ……』
そして、現在。
俯いてハルヴァの尻尾の先にすり潰した薬草を塗り包帯を巻くアイク。その頭頂部を上から見ていた彼女がポツリ。
「……禿げたな」
「なっ」
いきなりの言葉にアイクが狼狽える。ハルヴァがつまらなそうに続ける。
「……お主も爺じゃからなあ、どうして不老の魔術を使わん。最後に教えたであろう」
「あのですね、前にも言いましたが」
「『俺と一緒におじいさんとおばあさんになろう』か。良い心掛けじゃが、儂は今更皺くちゃの婆にはなりとうないわい」
「じゃあ、俺の最期を看取ってくれます?」
「魂を永遠に傍に置いてやろう、カカカ、あぁあ眠い」
「まったく……」
またも欠伸をするハルヴァを尻目に治療を終えたアイクが食事の準備をする。ここは岩壁の中に作られた隠れ家めいた住居で煮炊きをする釜もあり換気の為の風穴もあけられて酸欠の問題はない。
但し、冬籠りに向けて動きが鈍くなるラミアやリザードマン、リザードウーマンには独りで火を使っている最中にプツリと動きが止まって意識を失い、黒焦げという事故も稀にある。先程のハルヴァも寸前だった。
(慣れちゃあいけないんだ)
そう思いつつ、アイクが竈で料理を作る。空の平鍋に油を入れて、たっぷりの干し肉とキノコと根菜を炒め、塩と酒で味を付ける。持って来た固いパンは春迄、保つが今回は彼女の為に焼き目を付ける。食器棚の隅にハルヴァの秘蔵の葡萄酒も見付けた。彼女が情けない声を上げる。
「それは……アイク、よしてくれ堪忍じゃ」
「栄養付けなきゃ、でしょ。呑んで下さい」
「うぅ」
この空間の中心に据えられた乱雑にものが置かれた机を少し片づけて料理を置く。ハルヴァが捨て鉢に葡萄酒の栓を丈夫な牙で噛んで抜いて呑み咽喉を潤す。
「ぷは、料理はたっぷりでも皿は一人分じゃが?」
「どうぞ、お師匠様。私は下僕でございます」
「ふん、ほざけ。あむ、美味いな……ありがとう」
たっぷりと食べるハルヴァ。食後に彼女が外の様子を話すアイクに耳を傾ける。そして大欠伸。
「平和と言うのは退屈じゃぞ、金が動かん」
「へえ……孤児院に拳骨程のアダマントを送ったのは誰でしたっけ」
「ふん、あんな魔力のないただの石を報酬に寄越す貴族が気に喰わんわい」
「師匠のそういう偏屈なところも好きですよ」
「あほ」
話も終えてゆっくりと寄り添うアイク。甘えた声で彼女が彼の広い額を撫でる。
「そろそろ、本格的に眠い……」
「ふふ、良いですよ。でも、片付けてから」
「ねむたくても、だいじょうぶじゃ……」
すっかり老いた男と変わらぬ美しさの女。微笑み合いハルヴァがアイクの皺に指を這わせて顔を寄せて額に口付ける。
「ひひ、つるつるじゃ」
「参ったな……師匠」
「ハルヴァ。敬語も要らん」
「……ハルヴァ。好きだよ」
「うん。儂もじゃ……ちゅ」
唇を重ねる。アイクはこの瞬間は師弟を忘れハルヴァを抱き締める。鼓動が伝わる。生きているのだ、愛しき女性が今ここに居る。
◇◇◇
洞穴にはハルヴァの静かな寝息が支配していた。
「師匠、また来ますからね……」
そっと立ち去ろうとしたアイクの背に小さく声が聞こえた。
「……また、春が来たら、逢いに来て……お願い、寂しいよ……」
長年、この時だけ見せる蛇の魔女の弱音めいた寝言だった。彼は振り返ってゆっくりと静かに彼女のまなじりの涙を拭い、口付けをして頭を撫でた。呼吸が落ち着くまで、自分と息を合わせるように、やさしく、やさしく、撫でた。
寝床から伸びた蛇の尾の先が力なく彼の靴先に触れたのには気付いていたが、何も言えなかった。
彼は黙って表に出た。洞穴の外では雪が降り始めていた。洞穴を塞ぐ〝幻術〟をかけ直す。元通りの岩壁となった。そして、ゆっくりと空を見上げる。
空から降りしきる小さな白い欠片が、この世界から全ての温度を、匂いを、色を、音を奪って消し去っていく。これから続く長い冬を静かに物語るようだった。
(初稿:2025/12/08)
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