山道を四駆で走らせると河に駒のような橋脚が見えた。天気は曇天で山裾からは山霧がかかりフロントガラスには早くも雨粒が落ちてきた。この先に友人が経営する旅館がある。鄙びた場所ではあるが親から継いで四苦八苦しているそうだ。
私は久々の再会と労いついでにウイスキーでも呑もうと、とっておきの上物を携えて泊まりに来る事になった。
旅館に着くと彼が出迎えた。ずいぶんと痩せて白髪も増えた。元々、痩せの大男ではあったがまるでマリオネットのように見えた。彼の妻は女将として働いている。
彼が荷物を預かりながら笑いかける。
「よく来たな、〆切大丈夫か」
「大丈夫だよ、しかし山奥だな。客は居るのか」
「昔から湯治も兼ねて来てる人が居るんだよ。鮎は解禁前だから、ぼたん鍋食っていけ」
旅館は古い本館と新しく建てた別館がある。私は別館で泊まる。有難い事に通信設備も完備されていてインターネットも電話もメールも使える。
私は出版社に、泊まってる間もなるべく進めるよ、と伝えて温泉につかる。ぬる過ぎず熱過ぎない湯が心地良い。イノシシ肉のぼたん鍋を食べて、業務を終えた友人と酒を酌み交わす。
彼は学生時代の友人で一緒にハードロックバンドを結成して演奏していた。彼はベーシスト、私はドラマー。就職と共に自然解散して彼は都会へ、私は働きながらも小説の新人賞に応募して何とか十年目にミステリー賞を受賞してデビューした。古典推理小説作家のトーク企画をやったり地方局のテレビの週替りのコメンテーターをやったり小説一本の売れっ子とは言えないがほそぼそとやっている。
彼の親が相次いで健康を損ね跡を継ぐ事になったのは五年ほど前だ。仕事を辞めて山奥へ戻った。
思い出話に花が咲いて二人共酔いが回ってきた。彼がへべれけになりながらも私に面白い事があると言ってきた。
「ユーレイが出るんだよ」
「……旅館にか?」
「うんにゃ、谷、谷? 河だな。身投げした女のユーレイだぁ、こんな雨の夜に出るんだよ、まぁ、みて、こ、い、ぐぅ……」
彼はそのまま酔い潰れて寝てしまった。しかし、私も気分が高揚していたのだろう。客室に置いてあった非常用のライトと玄関から傘を借りてふらふらと外へ出ていった。
足元は濡れているが雨は上がっている。私は「おばけでてこい、てんぷらにしてやる」みたいな妙ちきりんな歌を唄っていた。今にして思えば悪酔いしていたと思う。
河へ出た。岸から離れていても解るぐらいに雨で増水してごうごうと響く流れに勢いがある。一気に酔いが醒めてきてここに居るのも馬鹿らしくなってきた。
(帰ろう……)
踵を返そうとした時、女性の声のようなものが聞こえた、いや、それははっきりとした嗚咽だった。私の視線の先には河に架かる鉄橋の上に白くぼんやりと光るように立っている若い女性の姿があった。
普段の明るい場所であればそれは生きている人間が人生に悲観して身投げしようとしていると思うだろう。それはそれで危ないものだ。
しかし、今は夜。雨上がり。周囲には灯りのない鉄橋の上で光る女性。
汽笛が鳴った。
そのまま列車が通過していく。
彼女が衝突するかしないかの瞬間、真っ逆さまに身を投げた。声が出なかった。しかし、視線を移せば彼女は鉄橋の上に立っている。そして、また落ちる。鉄橋の上。落ちる。鉄橋の上。
――人間じゃない。
列車が通過していった。何事もなかったかのように。
私が呆然としていると鉄橋の上の彼女がこちらに視線を向けた。その両の眼は茹で上げられた卵のように白濁としていた。ゆっくりと鉄橋を滑るようにふわふわと浮かんで降りてくる。こちらに来る。
震えながら私は走った。来た道を必死に戻っていく。
旅館へ戻って自身の客室に行くと友人も居らず片付けられて布団が敷いてあった。慌てて包まってがたがたと震えていると窓ガラスを叩く音が聞こえた。眼を瞑り、成仏してくれ、と何度も祈るように呟いていた。
◇◇◇
翌朝、頭が痛かった。寝不足のまま朝食を食べる。
お茶を淹れに来た彼に昨日の事を訊ねると「お前、本当に見に行ったのか」と呆れられた。私が半ば彼に八つ当たりするように愚痴る
「鉄橋の幽霊じゃなくてあれは悪霊だよ、ここまでついてきた」
「鉄橋? いや、河の崖の上の幽霊だぞ」
「えっ……」
「……見に行くか」
昼前に彼と一緒に件の場所へ行く。案内されたのは河に突き出した崖だ。彼が指をさす。
「ここから黒い服の女が落ちていくんだよ」
その言葉に自分も彼も何もかも信じられなかった。
「いや、見たのは白い服の女だったし、ここじゃない。鉄橋だよ。鉄橋の上から何度も飛び降りてこっちに気付いてふわふわ浮かんで渡って降りて……」
「……」
彼が無言になって、あごでしゃくり、ついてこい、と。河沿いを道なりに歩いていく。やがて着いた場所で彼が溜息をつく。
「……ここが鉄橋〝跡〟だ。二十年前に廃線になって撤去された」
「……」
私たちの眼の前に広がっていたのはかつて鉄橋が〝あった〟という汽笛の記憶を忘却の彼方へ捨て去った駒のような橋脚だった。
「なあ……お前は何を見たんだ?」
私が見たのは〝鉄橋の亡霊〟だったのだろうか。あの女は、列車は、いったい何だったのか。それは私にも勿論、彼にも、誰にも解らない。
(初稿:2026/07/01)
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